『こころ』とともに日本人に一番読まれている作品

夏目漱石の『こころ』とともに日本人に一番読まれているらしいこちらの作品を取り上げてみました。

まず題名の「人間失格」という言葉が強烈ですよね。なにが「人間失格」なのだろうと、そのことにまず興味を持ちます。どれだけひどいことを主人公がしてしまったのか、それともほかの登場人物の行いなのか。誰もが、おどろおどろしいイメージを持ちながら読み進めると思います。

読んでいくうちに、一人称で、手記と言う形で書かれているため、おそらく、やはり主人公が人間失格なことをしてしまうのだろうと分かりはじめます。いったい、主人公の葉蔵ははどんな恐ろしい、悪いことをしてしまうのか・・・。

 

主人公「葉蔵」はとてもいいやつ?

※以下ネタバレあります。

しかし、そんな思い込みも徐々にほぐされていきます。そして、変わりにこんな思いがうかびます。
葉蔵はひょっとして、とても「いいやつ」なんじゃないか。
ですが、彼は一貫して自分を「人間失格」だと読者に語り続けます。

「本人がそういうのだから、そうなのかな・・・」

そんなしゃっきりしない思いの中、話は続きます。

 

葉蔵はなぜ「人間失格」なのか、その理由について彼はこう言います。

「わざと道化を演じることによって人を騙して、好意を得ている」

その結果、得を得ているわけだと。なるほど、彼は頭がいいからそういった打算が働かせられるわけです。人は自分より頭のいい人を好みません。なぜなら、いいようにやられてしまう可能性があるし、同性であればお互いがライバル同士ですから、適わないとわかれば排除しようとされるでしょう。

それを彼は道化になる、わざと馬鹿になるということで、見事回避し、利益を得ているわけです。彼に言われると、なんと、いやらしい! ということになるのかもしれません。そんな思いから彼は精神をむしばみ、そこから逃れるため、とうとう薬に手を出し、精神病院に入ってしまいます。そして、

「もはや、自分は、完全に、人間で無くなりました。」

 こう自覚するのです。葉蔵は「狂人」として、扱われたまま、お話は終了かと思われましたが、最後の彼を昔から知っているある人物の言葉が、私のそしておそらく多くの読者の胸に宿っていたが自信を失っていた感覚を肯定してくれます。

「私たちの知っている葉ちゃんは、とても素直で、よく気がきいて、あれでお酒さえ飲まなければ、いいえ、飲んでも、……神様みたいないい子でした」

 

そう、やはり、彼はとても「いいやつ」だったのです。これはちょっとしたオチというか、サプライズ効果を結末で与えています。では、それがなぜ「人間失格」なのでしょうか?

 

「人間失格」の理由

序盤でかれは道化を演じて人に好かれることに非常に嫌悪を感じていることが繰り返し書かれています。道化を演じるとは、馬鹿を演じて、つまり自分は周りにとって都合のいいやつだと思わせた結果、利益を得るということになります。

 

人はというか、この世の生物は利己的にしか行動することが出来ません。他者のために行動することはできないのです。それは以前取り上げた『利己的な遺伝子』 に詳しいですが、簡単にいうと、利他的な集団があったとしてもその中に1つでも利己的な者が加わったら、利己的な者が圧倒的に有利なため、子孫は利己的な者が増え、あっという間にすべてが利己的な集団に変わってしまうからだそうです。

「誰かのために」と言ったところで、それは結局自分のためであるという運命からは抜け出せないわけです。

 

その『利己的な遺伝子』の中に「気のいい奴が一番になる」という章があります。

簡単にどういうことかと言うと、結局、誰かのために行動すると、結局まわりまわって自分に返ってくる形で、一番得をするしくみが生物学的にあるということです。これは利己的にしか行動できないわれわれ人間への一種の救いとなるようなことだと思うのですが、しかし、彼はこれに嫌悪をいただいているのです。

なぜなら、「自分が一人だけ得をすることを良しとしない」からです。それを悪とする葉蔵の自意識、性格は、周りからは「人間失格」どころか、それだけ「都合がいいやつ」つまり「神様みたいないいやつ」と思われることに何ら違和感はないでしょう。

 

まとめ 日本人の美意識、『こころ』との類似点

「神様みたいないい子」とういう周りからの見え方と「人間失格」という自意識との対比、そして、そんな自意識が引き起こした不幸が、悲劇的な美しさと憂いを私たちの胸に投げかけて迫ってきます。日本人に一番読まれている、確かに葉蔵の自意識は日本人の「こころ」に通じるところがあるように私には感じられます。

そして、日本人の「こころ」、美意識を描いているという点で、夏目漱石の『こころ』と非常に大きな共通項があるように思います。

 

一言でいうと奥ゆかしさでしょうか。例えるなら、贈り物を「つまらないもの」です、と言って渡す精神。これは外国人には理解出来ないと言います。謙遜、へりくだりの心。それがいいか、悪いかは一切置いておいて、この小説が日本人に一番読まれているという事実が、日本人がその「こころ」を持った人物像を愛するということを、鮮やかに指し示しているのではないでしょうか。

悪く言うと、「卑屈」です。でも、そんな卑屈な精神を好むこころが日本人にはある、という事実いうことでないでしょうか。元来そうだったのか、それとも戦争に負けたからそうなったのか・・、それは分かりませんが。

これが日本人に最も愛されるべき作品の一つであることに、なんら疑いはなさそうです。

 

追記

ネットを見ていますと、この小説は「幼児性虐待を描いたもの」という見方もあるようです。これは私には寝耳に水で驚きました。そういう見方もあるのかと、感心しました。

しかし、この小説の主題がそれかと言われると、疑問に思わざるを得ません。なぜか? その根拠は、冒頭で書きましたが、この小説が「日本人に一番読まれている小説」であるからです。

「日本人に一番読まれている小説」≒「日本人に一番共感されている小説」の構図が成り立つのではないでしょうか。「幼児性虐待」を主題に扱った小説が日本人に一番共感される小説、というのは違和感があると思いますが、どうでしょうか。