イージス艦のラッセンが南シナ海の中国人工島の12カイリ内に派遣されたというニュースがトップになってましたね。

各局の伝え方としては、

「中国の横暴を見逃すわけにはいかない」
「アメリカ、よくやった」

と言っているように私には感じられました。今までの戦争反対一辺倒はどこへ? といった感じで、一貫性のかけらもないなと思いながら見ておりました。

 

さて、それはおいていて、まあ、すぐにとは思いませんが、戦争になりかねない事態が近づいているとも言えます。そして、南シナ海だけでなく、世界中ではいつも争いが絶えません。今この瞬間にも殺し合いが行われているでしょう。

戦争なんて、そんな愚かな過ちをどうして何度も繰り返すのか? そんな奴らは馬鹿なんじゃないのか。こう思われている人も実際かなり多いのでしょうか。ですが、そんな中、敢えてこんなことを書くとどうでしょう?

 

戦争は本来、人間の本能に組み込まれた宿命

 

これに、まあ、そうだよねって言う人はどれくらいなんでしょう。馬鹿なことを言うな! って人の方が遥かに多いのでしょうか。でも、そうなんです。争いのない生物なんてこの世に存在しないんです。土地をめぐる食料と、女性、子供を守るための、男の争い。

戦争とはすなわち、国と国との”ナワバリ争い”のことです。

 

人間の争いの宿命を描いた作品には、かの有名なシェークスピアの『ハムレット』があります。

「ハムレット」は四大悲劇の他の主人公の3者とは違い、高貴な人間です。そんな高貴な人間でさえ、争いの渦からは逃れられずに、人間の尊厳を守るために最期に没する、ハムレットはそんな物語です。

そう、高貴な人間にでさえ、争いは避けられぬ宿命なのです。今戦っている人々が愚かだから、戦争をしているのではない、彼らが愚かだから争いが止まらないのではないと私は思います。

 

今、たまたま本当に幸せなことに平和な状態にいる私たちが、戦わざるを得ない国の人々を見て、

「なんて愚かなんだ」

という想いで、それを眺めるのは、あまりに上から目線の無責任と言えるんじゃないでしょうか。誰だって、戦争したくないですよね? 本当は。戦争を起こすのは愚か者という考えを捨てることををまずしないと、本質は見えてこないのではないか、そんな気がします。

そして、争っている人々を馬鹿にするように遠い目で見ている、そんな空気が日本には一定以上あるように私には感じられます。

 

中国の横暴さに黙って屈するわけにはいかないじゃないですか、私たちだって。「沖縄は自分たちの領土」っていってるんですよ・・。

戦うのか? 戦わずして屈するのか? 賢明な選択肢なんてないときだってあります。愚かな道を進まざるを得ない時もある、今がその時だと言っているわけではないですが、プラカードを持っている人たちは一体どうするつもりなんでしょう? 聞いてみたいものです。もちろん、戦争なんて絶対に嫌ですよ、私だって、そりゃあ。


戦争が物語を生まず、愚かなだけの悲惨な物になったのは、文明の発達による、兵器のせいで、もっと言うと科学のせいです。

 

戦国時代の武将を見て、「こいつらは愚かだった、反省しよう」なんて、誰も言いませんし、織田信長もナポレオンも英雄です。

いったいなぜでしょう? このことはつまり争いが、我々人間にとって不可避であり、生きるために宿命づけられた物であることを我々が理解している証左ではないですか? だから、そんな中で立派に戦い、勝利を掴んだ彼らは英雄なんじゃないでしょうか。それとも、ずっと昔のことだからその悲惨さを忘れてしまい、フィクション化しただけなんでしょうか?

 

「なんという陰惨な光景だろう!」

 

これは『ハムレット』の最後の場面で、敵のノルウェイ王子がハムレット家一家全滅となったのを目撃し、叫ぶ場面です。そう、争いの果てにはこんな陰惨な光景しかやってきません。
しかし、戦争が嫌だから、それを遠ざけるために、あいつらは愚かだと目線を高いところに持っていくことは、ただの現実からの逃げ口上なんだと私は思っています。