アルベール・カミュ作『異邦人』を取り上げましたが、その中で、主人公、非常識人の「ムルソー」を肯定することは危険ではないか、と書きましたが、その理由を今回突っ込んで書いてみたいと思います。前回も書いていますが、そのカギは人間の「合理性」と「非合理性」です。

ムルソーは不合理な人物ではない

この小説のテーマとして「不条理」がよく言われるのですが、「不条理」には二つの意味があるとウィキペディアにも記されています。常識に合わないことと、不合理なこと、です。しかし、「ムルソー」はあながち不合理な人間ではない、ということは、前回記した通りです。

 

私たち人間は「合理性」と「不合理性」、常にどちらか一辺倒というわけではなく、あらゆる場面でこれを使い分けている、ということが考えられます。

「ムルソー」は、この使い分けが、所謂「常識人」と逆さまになっているんですね。彼は母親が死んでも合理的に涙は流さず、不合理な理由で殺人を犯し、喜んで死刑になりました。カミュはそんな非常識人「ムルソー」を描くことで、逆に私たちの人間性を強く印象的に描き出したと言えることでしょう。

 

間違いなく名作だが、気になる点が・・

そんな訳で、この作品が名小説であることには、疑いの余地はないのですが、この非常識人「ムルソー」を肯定する意見がネットなどでも散見されます。ネットだけなら、まだしも作者のカミュもそんな発言をしているような傾向があります。

偉大な小説家に私のような者がたてつくようで、申し訳ないのですが、これは少々危険ではないでしょうか。その理由を詳しく書いてみたいと思います。

 

「普通の殺人」と「理由なき殺人」の違い

ムルソーは「太陽が眩しかったから」という理由で、不可解な殺人に手を染めるわけですが、これが最近の「理由なき殺人」に似ているとネットにも書かれています。

「動機がないのではなく、我々の常識で理解できないだけ」

とテレビで偉い人が言っていたのを記憶していますが、これはまさにその通りと言う感じがします。

 

では、これに対して言葉は少しおかしいかもしれませんが、我々の理解できる「普通の殺人」とはどんなものでしょうか。実はこれは、合理的な判断で行われる殺人のことを言うのです。その人物がいると邪魔で、排除すればメリットがあるから殺すわけです。例えば怨恨関係や金銭問題による殺人、強盗殺人などがこれにあたります。だから、当然私たちにその動機が理解できます。

その「合理的な殺人」への抑止力として、罰則があります。人を殺して得るメリットよりも、捕まって罰を受けるデメリットを大きくすることで、抑止しているんですね。つまり我々には合理的な判断で通常は殺人を犯さないというメカニズムがあるってことですね。

 

ですが、「ムルソー」のように、この点において合理性を持たない人間に対しては、罰則は抑止力を持ちません。役に立ちません。その点で、「太陽が眩しいから」という理由で人を殺す「理由なき殺人」は、私たちにとって、とても危険な物なのです。

 

人を殺してはいけない根本的な理由は合理的には説明できない!

そもそも、なぜ、人を殺してはいけないのでしょうか? この理由は合理的には「警察に捕まって大きな損をするから」というくらいにしか、説明できません。この理由がどうしても見つけられずに、人はそれを神様に預けたのではないかと私は思っております。

では、私たち自身ではそんな”乾いた理由”以外に、殺人を防ぐ手立てはないのでしょうか。もし、それが出来るとしたら、人間の本来持っている”非合理性”にその手がかりを見つけることが出来るかもしれません。

 

我々の本性の「非合理性」はみんなが仲良くするため?

当ブログではドストエーフスキーの『地下室の手記』の示唆から、人間の本性は非合理的な物であるということをお伝えてしてきました。その我々の非合理性とはいったい何のためにあるのでしょうか。母親の死んだとき涙を流すという、”無駄”は何のため?

私はそれは社会的な動物である人間がコミュニティで仲良くするためにあるのではないかと思っています。合理性だけでは、コミュニティは成立しません。なぜなら、邪魔だったらさっさと殺すのが、合理性なのですから。あなたの好きな人は合理性一辺倒の人ですか? きっと違いますよね。

 

私たちには常識が必要

我々は社会的な動物です。私たちが争いを起こさずにみんなで仲良く暮らすためには、常識を共有、共感し、自分のためだけの合理性を抑える必要があります。

その必要性を無視して、常識外れの「ムルソー」を安易に肯定することは、危険だと私は考えます。もし、カミュが本当にムルソーを良しとしていたのならば、文明のせいで人間は一人で生きていけると勘違いしちゃったの? なんて生意気なことを思ってしまいましたが、どうでしょうか。