少年スポーツを「成果主義」で測る”異様”

こんな記事が東洋経済オンラインに出ていました。「好き」より「結果」を重視する親が増えていることに、筆者の島沢さんは憂慮されているようです。これはそれぞれの家庭の方針ですから、私がこのことに関して、どっちがいいとか言う資格はありませんが、なぜこのようなことになっているのかと言う”事実”の部分は、当ブログがこれまでお伝えしてきた内容で、分かりやすい解説が出来そうです。

そして、これはやはり我々人間にとって、非常に重要な要素を孕んでいます。

スポーツは遊び? 遊びとは?

「本来、スポーツ(SPORT)の語源は“遊び”。スポーツをする意味とは何なのか。」

こちらの記事にこのような記述があります。なるほど、スポーツの語源とは”遊び”だったのですね。初めて知りましたが、今回は、さらにここからもう一歩踏み込んで考えてみたいと思います。「遊び」とは何でしょうか? この理解に役に立つのが、当ブログが独自に打ちたてた(と思っている)、人間の「合理性と非合理性」の理論です。人間とは、この二つの性質を高度に備えた生物であると考えることが出来るのです。

当ブログでは、合理性を、目的の最短、最大成就を目指す性質としています。対して、非合理性とは、それ以外の性質、そしてそれに価値を与えようとする性質のことかと思います。これは辞書にも載っていないのですが、目的を最短で最大限果たせたときに「合理的だった」と言いますよね。それをできる人を合理的な人と呼びますよね。

 

では、「遊び」とはこのうち、どちらになるでしょうか。これは、明らかに「非合理性」です。遊びとは生きていく上で”無駄”な行為であり、人がそこに、「好き」つまり、価値を見出しているに過ぎないのです。

 

スポーツに成果を求める意味とは

では、元々遊びだったはずのスポーツに、なぜ成果が求められるようになったのでしょうか。それは、スポーツがプロフェッショナルと言う形態に進化したからだと考えられます。みんなが好きなスポーツでお金、大金を稼げるようにしよう、そう言った発想が、本来非合理なはずのスポーツを合理的な性質に変化させたのです。

お金が絡むことで、スポーツの目的が「勝つ」ことだけに、限定されたのです。もっと言うと、資本主義が遊びの価値を変えて、固定してしまったのです。当ブログでは、合理性の価値は初めから決まっていて有限、非合理性の価値は何も決まっておらず、無限である、としてきました。

つまり、スポーツが非合理な遊びのままであった場合、当然負けにも価値を置けると言うことです。遊びであれば、負けて笑って楽しい、と言うことも十分あることでしょう。

スポーツに成果を求める意味とは、

お金を得ると言う目的を最大成就するため、だったのです。

余談ですが、以前、AIが囲碁で人間に勝ったことに関しての記事を書きましたが、これも同じことで、囲碁もプロフェッショナルになることによって、本来遊びであったはずが、価値が「勝ち」のみとなり、結果、プロは人工知能に敗北を喫してしまいました。

勝ちを目指すという合理性に於いて、人間は人工知能に勝てない時代になってきたのです。

子供に「成果主義」は、むしろ自然?

これで親がなぜ、少年スポーツに成果を求めるかが分かりましたね。それは、この世でよりお金を多く稼ぎ、有利に生きてほしいという子供への欲望? いえ、願望の賜物だったのです。筆者の島沢さんは、それを異様だと表現されています。まあ、確かに分かりますね。

しかし、この世は事実として、お金をたくさん稼いで、有利に生きることが最善、とされています。その価値観で、資本主義は回っています。特に現代は、その合理性の重視が進み、格差を拡大する要因になっています。合理性の本質とは奪い合い、結果、より優れた合理性への独占が進み、格差を広げるのは必然だと考えられます。

ですから、現代の親たちが子供のうちから、必死に「勝ち」を目指す教育方針を取ると言うのも、決して悪いこととは言えないばかりか、むしろ当然で、その方が賢明とも考えられるのではないでしょうか。

それに、勝ってお金をたくさん稼いで有利に生きると言うそれは、生物的な本能としても当然と言えます。私たちは、生物学的にもより多くの遺伝子を残すことを求めることが宿命づけられています。

 

生物として「勝ち」は絶対なのか?

「われわれは遺伝子と言う名の利己的な存在を生き残らせるべく盲目的にプログラムされたロボットなのだ」

~ 『利己的な遺伝子』 リチャード・ドーキンス ~

かの有名なリチャード・ドーキンス作、『利己的な遺伝子』の中にこのような記述があります。これによると、我々は生物として、勝ちを最大の価値観とすることは、絶対であるかのように思われます。そうであれば、子供への「成果主義」は異様ではなく、むしろ絶対的な価値観だということになります。

これは実に難しい問題ですね。この世を生き抜くということは、戦いであり、争いのない動物など存在しません。人間もその例外ではないのではないか。だとすると、私たちは、お互いに争いに勝つことだけを目論み、生きていかなければならないと言うことになります。

しかし、私は単にそうではないのではないか、と思える証拠を一つ見つけたと思っています。それは、私たちのすぐそばにある物でした。その答えは、私たちの笑顔、つまり「笑い」という価値観ではないかと、私は考えています。

遊びであれば、負けて笑って楽しい、と言うことも十分あると書きましたが、笑いとはつまり、非合理の肯定です。合理的ではないことを肯定することにより、笑顔、笑いが生まれるのです。もし、この説が正しいのであれば、神様は、やはり私たち人間を「勝ち」を求めるだけの生物としては創らなかった証拠だということが言えるでしょう。

もし、私たちが合理性、争いの中の「勝ち」にしか価値を見出せないのだとしたら、私たちに笑いが存在する理由がないのです。

 

全ては自由で私たち次第

子供に「成果主義」を求めるのかは、全ては親の価値観によります。どちらが、いいか悪いか、なんてありません。事実として、現代社会は、「勝ち」、即ち合理性に対して価値観を見出させるように大きく傾いています。初めから決められた、その価値観に則るのか、それとも、無限の価値を見出だすことに、人生を傾けるのか、それはすべて私たち次第と言うことではないでしょうか。そして、子供は親から押し付けられたそれに反抗する権利を持っています。

人工知能は、ロボットは「勝ち」しか選べませんが、私たちは神様によって、すべて自由に選ぶことが出来る崇高な存在として、この世に存在させてもらっているのではないでしょうか。