相模原の障害者施設において、元職員の容疑者によって、19人が殺害され、26人が重軽症を負わされるという他に類を見ないほどの凄惨な事件が起こりました。容疑者は、

「障害者はこの世に必要ないのでいなくなればいい」

などと非常に身勝手な理屈を犯行の動機に挙げており、無差別に大量な人を殺害するという点から、現在、世界中の脅威となっているテロ行為ではないかとの見方も多いようです。テロとは、

政治的目的(注)ここでいう政治的目的とは、政権の奪取や政権の攪乱・破壊、政治的・外交的優位の確立、報復、活動資金の獲得、自己宣伝などを達成するために、暗殺・暴行・破壊活動などの手段を行使すること

Wikipediaによるとこのような定義となっております。今回はこの観点を探ってみたと思いました。順を追って考えてみると、そこには「テロ」とは明らかに違う側面が見えて来るのではないかと考えております。

 

自己宣伝が動機のラスコーリニコフ型犯罪なのか

伝えられている報道を元に見てみますと、事前に衆議院議長公邸を訪れ衆議院議長宛てに犯行を匂わす手紙を送ったとさています。このことから「政治的」という部分を感じることもできますが、しかし、「政権の奪取や政権の攪乱・破壊」を目的としていた、とは考えづらいですよね。普通に見て、彼のターゲットは政権ではなく、あくまで障害者だったと想定されます。

では、もう一つの理由の「自己宣伝」の可能性はどうでしょうか。以前の記事で、「テロ行為」は現代社会からドロップアウトした若い男性が、一発逆転の自己宣伝のために行う可能性の高いものだと書かせていただきました。

そして、そんなことが頻繁に起こる世の中を150年も前に予言していたのが、ドストエーフスキーの『罪と罰』だと。

天才はどんなことをしても許される

主人公のラスコーリニコフはこんな身勝手な思想を新聞紙上に投稿し、その元に因業な金貸し老婆を殺害します。

この部分を取り上げると、今回の事件は非常によく似ています。そっくりだと言ってもいいくらいでしょう。しかし、私は相模原の事件が、この『罪と罰』や「テロ」とは明らかに大きく異なっている部分があると思っています。

 

ターゲットは、”弱者”か”強者”か

それは今回の事件の犯罪の目的、ターゲットが、”社会的な弱者である”という点です。『罪と罰』のラスコーリニコフは老婆を殺害したのであり、そこだけを見れば”弱者”なのですが、しかし、因業な金貸しは社会的な”強者”なのです。ラスコーリニコフの本当のターゲットは、ひ弱な老婆ではなく、因業な金貸し、その先にある貧富の差を生み出し、自分を貧困に追い込んでいる現代の社会システムそのものなのです。

ラスコーリニコフは犯行によって、眼前と横たわる現代社会システムの破壊を目論んだのです。もちろん、彼は馬鹿ではありませんので、そんなことは到底無理だと初めから分かっていたでしょう。しかし、そんな大胆不敵な行動の実行はなによりも大きな自己宣伝になると考えたのでしょう。そして、その宣伝相手は当然、女性なのです。

「テロ」の場合もこの可能性が非常に高いと考えられます。イスラム系過激派の起こすテロは弱者の一般市民が狙われますが、真にターゲットとしているのは、欧米社会で、彼らはその転覆を狙っているわけです。これは彼らにとって最強の敵なのです。

 

弱者が目的のテロ行為は、合理性がない

対して、相模原の事件はどうでしょうか。今まで伝わっている話からは彼が日本政府の転覆を狙っているとは到底思えません。また、現代社会のなにかの破壊を目論んでいるようにも見えません。現代社会に敵意を抱くというよりも、まるで犯行が社会に役に立ち、受け入れられるかのような発言をしています。

それにそもそも、弱者に対して、卑劣で卑怯な犯行のテロを行う合理性は全くありません。テロリストが卑劣なテロを行うのは、正面から欧米に戦争を挑んでもまるっきり勝てないことが分かっているからで、勝てると分かっているのに卑怯な手を使う必要など微塵もないのです。

少し調べてみると、容疑者は昔は優しい性格だったが、大学くらいから急に、所謂非行のような状態となっていたようです。このような若者の暴走行為や非行行動というものも、実は社会システム、国家権力という極めて”強者”に対する反抗であり、これも女性へのアピール手段なのです。大雑把に見て、音楽のロックというジャンルもこの部類かと思います。彼は何故突然、ターゲットを強者から弱者へと変えてしまったのでしょうか。このことは、彼にはなんのメリットもないことなのです。

この一点から考えてみても、相模原事件の容疑者は合理性が壊れており、なんらかの理由により、人間的機能の一部を失っていると考えられます。対してテロリストは卑劣で残虐かもしれませんが、あくまで合理的であって、人間的な機能は失われてはいないのです。ナチスの思想に基づいて理論的に行われたという見解もありましたが、合理的な人間にそんな考えが頭に浮かぶかは別として、実際に実行に移すかは、かなり疑問ではないでしょうか。

彼は事件の代償としてあの若さで自分の人生を終了させており、そんな極めて不合理な選択を合理的な人間が選ぶとは私には思えません。

どちらにしろ、非道極まりなく、非常に罪深い犯行であることはいうまでもないことです。