私はこのブログに於いて、人間(動物も含む)は、目的を一心不乱に他の誰よりも早く達成しようと言う野心的な行動を取る一方、目的の存在しないものに価値を見出す、創造する能力、価値観を持っていることを強調的に書いてきました。

今回のテーマは、「美」に目的は存在するのか? です。実は、その捉え方一つで、世界の見え方は180度変わってしまうのです。

現代の「進化生物学」の美の目的

まず、現在の世界の常識では、「美」には確固たる目的が存在します。しかし、その常識に真っ向から挑んだのが、今回ご紹介する『美の進化 性選択人間と動物をどう変えたか』を書いたリチャード・O・プラム氏です。

橘玲さんが、この本に関する解説を書いていました。

現代の進化論では、すべての生き物は所与の環境のなかで生存と生殖に最適化するよう進化してきたと考える。生き物の生態に驚くべき多様性があるのは、地球環境が多様で複雑だからだ。

当たり前だと思うかもしれないが、しかしこれを徹底すると、生き物のすべての特徴や行動は適応、すなわち生存・生殖にとって役に立つことと結びつくはずだ。

男女の性戦略の有力な理論「進化心理学」に挑む「審美主義」。
生き物の美しさは、性淘汰による「美の進化」の賜物なのか?
【橘玲の日々刻々】

生物の性質の全ては、生存競争において「何かの役に立つ」からこそ、存在すると現代の進化論は解釈します。しかし、当の「進化論」の生みの親のダーウィンは、実はこれに否定的だったのです。

クジャクの羽根がなぜあのような形態に進化したかは、ダーウィンを悩ませた。あんな重たいものをもっていては、飛ぶことも早く走ることもできず、自らの身を捕食動物の餌食に差し出すようなものだ。生存になんの役にも立たないばかりか、かえってマイナスになる。

 この難問に対してダーウィンの出したこたえは、「性淘汰(配偶者選択)」だった。なんらかの理由でクジャクのメスがオスの美しい羽根を好むようになれば、オスは美しい羽根を進化させる(メスの選り好みによって、より美しい羽根の遺伝子をもったオスだけが子孫を残すことができる)。これが何百世代、何千世代とつづけば、オスの羽根は生存の限界まで巨大化するだろう。

「クジャクの羽は何の役にも立たない。ただモテるだけだ!」と言うのが、ダーウィンの考え方だったのですね。これに対して、現代の進化論を牛耳ることになる主流派はどうかと言うと、

ダーウィンが自然淘汰と性淘汰を進化の両輪と考えたのに対し、ウォレスが進化の原理はひとつだけで、性淘汰は自然淘汰の一部だと見なしたことだ。

 クジャクの羽根がより大きく、より美しくなるのは、そのようなオスをメスが選り好みしたからだ。ここまでは両者は同じだが、ウォレスの自然淘汰=適応主義では、大きく美しい羽根はオスが生存・生殖に適したよりよい遺伝子をもっていることの指標だと考える。重たい羽根をひきずりながら生き延びて成長し、左右対称の美しい模様を描けるオスは、寄生虫などに侵されず、健康で頑健な優れた遺伝子を子どもに受け渡すことができるのだ。

「健康で強いから美しいんだ!」つまり、美しさは生存に勝つと言う目的達成のシンボルだと考えたのです。

この対立にダーウィンは敗れ、「進化の原理はひとつ」ということが世界の常識となりました。しかし、そこに果敢に反撃したのが、リチャード・O・プラム氏だったのです。

進化の基底に自然淘汰があることは間違いないが、生き物の美しさの多くは、性淘汰による「美の進化」の賜物だとプラムは主張したのだ。

私の考えと似ている・・

僭越ながら、プラム氏の主張は、私がこのブログで書き記してきた考えと似ている部分があります。

『美の進化』でプラムは、バードウォッチングで出会った鳥たちの美しさへの驚きと感動、生き物をたんなる「ヴィークル(乗り物)」と見なす無機質な適応主義(ドーキンスの「利己的な遺伝子」)への反発から、どのように「審美主義」に到達したかを活き活きと語っている。

私もこの記事で、現代人の価値観は、ドーキンスの『利己的な遺伝子』に肩入れし過ぎていると活き活きと?批判しました。

話の前提として、なぜリベラルな進化生物学者であるプラムが進化心理学に反発するのかを説明する必要がある。その理由をひとことでいえば、「進化論(適応主義)が保守派に悪用されている」と考えているからだ。

私はそれを、生物学者のフランス・ドゥ・ヴァール氏の言及から、国際的な資本家による「生物学的プロパガンダ」だと結論づけました。私がこの記事を公開した日は、2020年3月8日。『美の進化』の日本語版の刊行は、2020年3月10日でした。

ピカソの絵はなぜ美しいのか

「美に目的はあるのか?」と言う問いへの私の答えは「ない」になります。もちろん、それを生物学的に説明する力はありません。しかし私は、それを生物学の先生からではなく、全く別の世界の有名人から教わったつもりでいるのです。

誰もが芸術を理解しようとする。ならば、なぜ鳥の声を理解しようとはしないのか。人が、夜や花を、そして自分を取り巻く全てのものを、理解しようとしないで愛せるのはなぜだろうか。なぜか芸術に限って、人は理解したがるのだ。

パブロ・ピカソ

それは美の巨人、パブロ・ピカソ先生です。

芸術作品は、部屋を飾るためにあるのではない。

そう、ピカソの絵には、明らかに目的がないではありませんか。実際に美術史を追ってみると、絵画はその目的を排除するように進化してきたことが分かってきます。

初めはそれはただの図でしたが、いつしか宗教の普及のための物になり、次に部屋の飾りのためになりました。そして、天才ピカソは最終的に、絵画の目的を完全に排除してしまったのですが、それこそ芸術の極致と呼べるものだったわけです。

ピカソの絵が誰にも理解できないのは、当然です。人は目的とその到達への筋道を知ったと思ったときに「理解出来た」と感じるのです。

目的の存在しないものは、理解が出来ないのです。

性的魅力には「暗号化された意味」が含まれていて、美しい人はある程度は客観的に優れているに違いないと考えているのである。

『美の進化』 リチャード・O・プラム

美の目的とは美のみであり、その裏に陰謀はなかったということですね。

競争だけが人間の価値ではない

あなたは「現代進化論」VS「審美論」のどちらを支持しますか? 私は断然、プラム派ですね。現代の進化論をベースにすると、私たちの価値観は、「競争原理」ただ一つに集約されることになります。

それも一つの事実とは思います。しかし、私たちには同時に他のことにも、自由に無限に価値づけする力を持っていると考えた方が、素敵ではないでしょうか。

芸術とは、それに対する評価と関わり合いながら共進化するコミュニケーションの一形態なのである。

ピカソの絵は元から美しいのではなく、鑑賞者と画家とのコミュニケーションの中で、その評価が進化、創造されたということです。ピカソの絵の素晴らしさが分からないと言う人は、単に芸術とのコミュニケーションが不足しているということかもしれません。

多様性こそ価値

そして、その考えは人間に多くの多様性を許可します。人間ほど、多様性に富んだ生物は、地球上に他にないでしょう。

多数派の文明人、文明に頼らないアーミッシュ、アマゾンの原住民。それらは当然同種ですが、他の動物なら別種に分類されるくらい、生き方に違いがあります。

私たち人間だけが、種の中にこのような豊富な多様性を持っているのです。それらを生み出したのは、各々の価値観です。これはとても貴重だと私は考えます。

現在、権力者たちは、この人間の多様な価値を一つに統一しようと躍起になっていますが、これは実に下らないことです。

彼らは文明に堕落し、美、人間性を失ってしまったのではないでしょうか。