江戸川乱歩作、ドラマにもなっていました『D坂の殺人事件』を読みました。この作品はとても面白かったです。名探偵、「明智小五郎」が初登場となるのですが、江戸川乱歩特有の異様な世界観が表現されており、私はこういうのが、とても好きです。

この短編小説の中で、エドガー・アラン・ポー作の『モルグ街の殺人事件』が出てくるのですが、こちらの作品はその影響を色濃く受けています。そして、この2作品、実は日本の「お笑い」に近いものなのではないか、という独自見解をこれから書いてみたと思います。殺人事件とその解決という非情にシリアルなものであるはずの、「推理小説」がなぜ、「お笑い」近いのか? そのキーワードは”非常識”にあるのではないでしょうか。

※以降、ネタバレを含みますので、ご注意ください。

非常識な、合理性のない推理小説

読んだ方はお分かりと思いますが、『D坂の殺人事件』の真相、結末は、とても非常識なものです。その構成は、作品中に出てくることから、また、彼のペンネームからも確信できるように、そのモチーフはエドガー・アラン・ポー作、『モルグ街の殺人事件』です。

読まれていない方は、ぜひ読んで頂ければと思いますが、この推理小説の真相もとっても非常識なものになっているのです。これは『D坂の殺人事件』内にも書かれているので、書いてしまいますが、「犯人がオラウータンだった」と言うものです。

これを知人などに話すと、大抵の反応は「?」、「なにそれ?」という狐につままれたような反応になります。これをここで、初めて知った方もきっとそう思われるのでしょう。それもその筈です。エドガー・アラン・ポーがこの作品内で、私たちに示した結末は、私たちが持っている「推理小説とはこういうものだ」という常識からはあまりにもかけなれているものなのです。

 

推理小説作家の追求

推理小説の醍醐味とは、読者に「意外感」を与えて、興奮を与えることに価値があるものだと言えると思います。「アッと驚く結末」、これを私たちは求め続けているわけですね。作家達はそれを叶えようと日々試行錯誤した結果、とうとう、それは私たちの常識を外れ、超えるところまで到達した、と考えられるのではないでしょうか。

その高次の結果が、『モルグ街の殺人事件』であり、それに強い影響を受けた『D坂の殺人事件』だと言えるのです。

 

あなたが肯定すれば、それは「笑い」になる

『モルグ街の殺人事件』の「オラウータンが犯人だった」というそれは、あまりに常識外れですので、そう簡単には受け入れられないというのは当然かもしれません。

しかし、ひとたび、これに対して否定的でなく、肯定的な目を向けてみると、途端に面白くないでしょうか。真面目に読んでたのに、登場人物も全員まじめなのに、「犯人がオラウータン」だったんですよ。笑っちゃいますよね。

「犯人がオラウータンだった」という非常識な結末に対する態度を、あなたが肯定するのか、しないのか、その結果行かんで、この作品の評価は180度変わってしまいます。肯定した場合の反応はやはり「笑い」しかないのではないでしょうか。そんなアホな! って言う話です(笑)。肯定の態度は、「殺人事件」と言うフィクションとは言え、非常にシリアルな場面でさえ、「笑い」という楽観的なものに変えてしまいます。

推理小説は、「意外性の追求」というその宿命から、「お笑い」と言うものに非常に近い状態に進化したとも考えられるのではないでしょうか。

『D坂の殺人事件』に関しては、結末についての詳細は書きませんが、笑ってしまうほどの意外性を持った結末、という見解にはご納得頂けると思うのですが、どうでしょうか。

 

他にも似たような構造の小説

以前にも、「お笑い」に似た要素があるとして、宮沢賢治作、注文の多い料理店』や、アガサ・クリスティの『オリエント急行殺人事件』を取り上げてみましたが、今回、『モルグ街の殺人事件』、『D坂の殺人事件』を読むことによって、その考えが私の中で、再び確かめられました。

私たちは「笑い」とい最高の方法でこの2作品に答えることが、この小説への最高の称賛となるのではないでしょうか。