夏目漱石の『こころ』の中に出てくる名台詞をお伝えする記事として、

夏目漱石作、『こころ』の名台詞への考察① ~恋に上る階段なんです~

夏目漱石作、『こころ』の名台詞への考察② ~自由と独立と己とに充ちた現代に生まれた・・~

の2記事を書かせてもらっておりますが、それ以外の作品に出てくる夏目漱石の名言についても書いてみたいと思いました。

私の好きな名台詞 ~道徳に加勢するものは・・・~

道徳に加勢するものは一時の勝利者には違ないが、永久の敗北者だ。自然に従うものは、一時の敗北者だけれども永久の勝利者だ

~夏目漱石 『行人』~

今回取り上げるのは、こちらになります。

さて、副題にした、「いいか悪いかは考えない方がいい」という一見乱暴な物言いのようにも見える一文ですが、この名台詞の心は実はこういうことなのではないかと、私は考えております。

「いいか悪いか」は神様にしか決められない!

私たちは、幼いころから「善と悪」についてを繰り返し言い聞かされ、、「何がいいか、何が悪いのか」を考えなさいと教育されてきたと思います。今もあるのか知りませんが、私の小学校には「道徳」という授業があり、NHK教育テレビの「さわやか三組」というドラマを見せられました。こちらは、小学校の1クラスで様々な問題発生するのですが、ドラマはその途中で終了、解決編は存在しないというなんとも乱暴な番組でした(笑)。

「あとは君たちで解決策を考えなさい」

という非情なぶん投げジャーマン姿勢に小学生ながら、「道徳を語るやつはろくでもないな」と思いましたが(笑)、まあ、それはいいとしまして、そういった教育のおかげで私たちは、なんでも「善悪」つまりは「道徳」を第一に考える癖がついています。

人間が無意識の内に世の中に存在するものと認識している正邪・善悪の規範

~ウィキペディア~

ちなみにウィキペディアにおける「道徳」の定義はこちらです。

 

しかし、夏目漱石の名言におきましては、「道徳に加勢する者は一時的な勝利者にしかなれない」となっています。これはどういうことでしょう?

私は、それを解く鍵は、「善悪」という観念の”無理”にあるのではないかと思っています。

 

「いい、悪いは」主語で変化するもの

道徳の定義に「善悪」の規範とあるのですが、この主語とはいったい誰になるのでしょうか? ここが最大の問題なのです。1個体である我われにとって、万人、もっと広く見ると動物を含めた万物にとっての「善」など存在ません。

誰かにとっての「善」は誰かにとっての「悪」なのです。これを物理学を持ち出して考えてみます。アインシュタインの相対性理論は、時間や空間は個体によって変化し、人それぞれ違うものであることを明らかにしました。つまり、時間や空間でさえ、主観的な誰かの物なのです。客観性などと言うものは、本質的には存在しないのです。

 

だから、どうしても必要な時、善悪の判断は裁判で、みんなで決めた法律を元に相当の時間をかけて慎重に行います。しかし、日常では、善悪を主観で簡単に決めようとする癖が我々にはあるんですよね。

海外には大きな宗教がいくつも存在しますが、「善悪」の判断は本質的に人には出来ないからこそ、それを神様に預けていると言えるでしょう。神様ならば、善悪の判断もつくでしょう。しかし、結局は人の都合によるそれの解釈で争いが起きるわけですね。

 

少し前に子猿に「シャーロット」というイギリス王女の名前を付けて、批判が殺到したという事例がありましたが、あれなんかも、安易な善悪判断の好例です。結局、被害者はどこにも存在せず、批判者の単なる主観であることが明らかになりました。

 

人は本来は善悪では動けない

自分の都合を持たない人はいません。ですから、「善悪を決める」にしても、自分の都合に沿うという呪縛からは決して逃れられないのです。善悪を決めることは、人が神様になるこを意味します。だから、周りはそれを許さずに争いになるのです。個人で「道徳」を考えるなんて、実はとても横暴なことだったのです。

 

名言に戻って、「道徳に加勢するもの」とは、どんな意味でしょう。これは、おそらく「正論を語るもの」という意味合いだと思います。神様を持ち出せば、「正義」を語ることは出来ます。それはきっと一時的な素晴らしい称賛を得るでしょう。しかし、実際その通りに行動できる人なんて一人だって存在しないのです。「利己的」でない人はこの世に存在しないからです。

即ち、それは嘘であり、欺瞞であるため、やがて露呈し、「一時的な勝利にしかなれない」と夏目先生はおっしゃっているわけですね。

 

結局は損得”感情”?

では、永久の勝利者とされる「自然に従うもの」とはどんなことでしょう? それは、人間本来の性質、気持ちに従うものと解釈していいのではないでしょうか。

人は個人の損得勘定で動くのが、当然です。しかし、それだけで人と接していては嫌われ、邪魔されるのも人の自然な感情です。悪いこととは、周りが嫌な思いをすることなのです。そうなったときに、自分にとって損な周囲の感情を否定するために、「道徳」、「正義」を持ち出して、強引に自己都合を通そうとするのは、争いと言う最悪な結果を生みます。

ビジネスの場でもそんな場面にたびたび遭遇します。そんな時は、「善悪」なんて考える暇があったら、周囲の感情はどう動いているのか、すなわち”情”報を素早く集めて、うまく転がす方法を考えた方が遥かにいい仕事が出来るでしょう。

 

ですから、先生の名言通り、自然に従うこと、すなわち、「周囲の自然な感情を荒立てず、自分が得をし、周りにも損をさせない方法」を必死に考えて生きていくことが、好かれ求められる人間になり、永久の勝利者への道となる、と言うことではないでしょうか。