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A.I.への崇拝
今回は少々重大なテーマについて書いてみたいと思います。最近、人工知能関連ニュースを耳にすることが多くなってきたのですが、それらを聞いていていて、私が非常に危惧を感じるのは、人工知能というその技術そのものよりも、それに対する人のとらえ方です。
「人工知能は人間を超える」
「人が敗北する時代が来る」
そんな声が非常に多く、ネットにも溢れていますが、これはA.I.技術に対する恐れを通り越して、畏れ、さらに言うとほとんど崇拝になってしまっています。
この捉え方は、非常に偏屈な視野の狭い見方であり、非常に危険であると断言せざるを得ないでしょう。まあ、科学に対する崇拝は世の常ではあるのですが、本当は人工知能とは単にハイリスク・ハイリターンの道具であり、原発と同じような性質のものだと言うことです。現時点で、これから先の未来においても(永久にかはわかりませんが)、A.I.が人間の脳を超えることなど100パーセントあり得ません!
その理由をこれから詳しく書いていきますが、この記事は私のブログの中でも重要度は結構高いです。きっと最後まで読んで頂ければ、納得、共感頂けると信じております。人によってはパナマ文書より衝撃の内容となるでしょう!(笑)。
危険でないとは言えない
くりかえしますが、未来永劫かは分かりませんが、少なくとも今からずうっと先まで、人工知能が人間を超えることはないと断言しますが、ただ、だからと言って危険ではない、とは決して言えません。
ここで、私が人工知能をある程度理解するのに非常に役に立った本をご紹介します。
非常に分かりやすく、丁寧に書かれた本で、AIの今を知るには最適な本ではないでしょうか。
結局彼らが行うのは、データ収集と計算
この読後にも、やはり今までと同じことを考えたのですが、彼らが行っているのは、結局、データを集めて計算することなのです。この能力において、人は全く適いません。しかし、これはとうの昔に達成されたものであり、今、その精度とスピードが大きく伸びたことと、自分自身でそれを学習していくことが可能になった、と言うことです。
その結果、天文学的なパターン計算が必要な、将棋と囲碁の世界でも、人間の直感を凌ぐほどになったと言う話なのです。これがどうして、人を超えたとか、人間が敗北すると言う話になるのか、私にはさっぱりわかりません。
こう言っては、プロの方に失礼かもしれませんが、高々将棋で負けただけではありませんか。私は、ファミコンソフトでも勝てませんでしたが、私はファミコンに人として超えられていたんでしょうかね(笑)。
その高度な計算能力が一定の分野、主にビジネスの場で人間の計算力を上回るほどの物となったために、将来は様々な分野で活用される可能性があり、結果、予期できない事故を起こす可能性がある、まさに使い方によっては原発事故のような物が起きるハイリスクな道具が出来つつある、と言うだけの話なんです。
重要な部分を機械に任せちゃんだから、そりゃあ危険だろうってことですね。
将棋の例から考える AIは「何で」人間を超えたか
さて、重大な話はここからになります。今までの発言を覆しますので、こそっと言いますが、ある部分において実はAIは人間を超えたんです(笑)。残念ながら、それは確かです。でも、それは人間の持っている性質のほんの一部分の話です。この概念を説明できる好例が『AIの衝撃』の中に書かれていました。
将棋ソフトの「ボナンザ」とプロ棋士との戦いについてのページです。つい最近も、囲碁でA.I.が勝利したと言うニュースが踊ってましたが、ここに人工知能の本質を捕らえる内容があります。
将棋ソフトの計算方法
「プロ棋士による指し手の限界」
こう題された章です。
コンピューターが将棋を指すとき、一つの局面で理論的には最大80程度の指し手が考えられます。つまり、ゲーム木が枝分かれするたびに、一手が80手に分岐するので、仮に30手先まで読もうとすれば、最後には「80の30乗」本の枝へ分岐します。これは「天文学的数字」という表現でも足りないほどのほど膨大な分岐数で、たとえコンピューターを使っても有限の時間内に読み切ることはできません。
このため、将棋ソフトでは、従来から通称「枝刈り」と呼ばれる手法が採用されてきました。これは文字通り、放っておけば野放図に分岐してしまう大量の枝のうち、「合理的に考えて起こり難い」と思われる枝を刈ってしまう技法です。
ここに非常に重大な要素がすべて書かれています。要約すると、コンピューターと言えども、無限に近いような手のパターンをすべて計算しきることは出来ない。なので、「合理的に」に起こりえない手、相手も自分に有利にしようとしていると仮定し、つまりはわざと負けようとするような手、これを排除するという手法を取ると言うことです。
こうすることによって、原理的には80の指し手を最小9まで絞り込むことが出来るそうです。
枝刈りにおける合理的な手とは?
将棋ソフトの手法、「枝刈り」、ここに当ブログがこれまで再三主張してきたことが如実に分かりやすく、表れています。それは、「合理的に考えて起こり難い」の合理的にの部分です。当ブログでは、合理性の性質を独自に、
目的に対して最短で到達しようする性質のこと
と定義してきました。将棋の例で言えば、「勝つ」という目的を最短で成し遂げようとする性質と言うことになります。だから、わざと不利になるような手は合理的でないので、刈ることが出来るというわけですね。
将棋における価値は勝ちしかない
以前、このようなことを書かせていただきました。
目的へ最短で到達しようとする合理性の中では、価値は有限なのです。
「プロ棋士による指し手の限界」
『AIの衝撃』のその題目通り、勝ちを目的とした合理性の中では、指し手は有限なのです。そして、こうも書かせていただきました。
合理性の価値は最初から決まっている
将棋の価値は「勝ち」しか存在しないのです。そして、それは初めから決まっている。すべてまとめると、合理性という決められた価値への到達の中では人間は人工知能には歯が立たない時代になってきたということです。
『AIの衝撃』の作者の小林雅一さんは、
「将棋ソフトがその進化の早さで人を圧倒するようになった時、プロ将棋の価値を壊してしまうかもしれない」
こんな懸念を表明されています。それに対抗する唯一、絶対の手段は、「勝ち」以外の価値感を持つことなのですが、果たしてプロ将棋にそれが出来るでしょうか。
人間の活動における合理性は富の独占
ロボットが将棋に勝って人を超えると言うのなら、人間の活動というところまでそれを広げて考えてみましょう。合理性では人間はロボットには適わないことが、『AIの衝撃』でも明らかになりました。この本の中では、AIの進化が、人間のあらゆる活動に進出し、支配し、独占する恐ろしさが書かれています。
合理的な力で我々を凌いだ彼らのその最終目的とは何でしょうか? 答えは簡単です。それはお金、富です。彼らはお金を集めて独占する能力において、人間を超えようとしているのです。グーグルはそのために、人工知能技術に全力を注いでいるのです。
人工知能が人間を超えると言う意味は、富を独占するという合理性においての話、だったのです。言われているすべてはそれです。調べてみてください。違うと言う証拠は決して見つかりません。
人間の価値は本当は何も決まっていない
ここまで読んでくれた方は、だいぶ嫌気がさしたでしょう? でも、きっと大丈夫、世界最高の作家と言われるドストエフスキーが教えてくれます。
「極端な自意識過剰から一般社会との関係を絶ち、地下の小世界に閉じこもった小官吏の独白を通じて、理性による社会構造の可能性を否定し、人間の本性は非合理的なものであることを主張する」
~ドストエフスキー作 『地下室の手記』~
我々の人間性とは何でしょうか、富を奪い合う合理性のことでしょうか。いえ、違います。それとは正反対の非合理性のことなのです。非合理性とは将棋の例で言えば、刈られてしまった72の手のことです。排除された72手の中に、実は勝ち以外の大いなる価値があったかもしれないではありませんか。将棋では72ですが、我々の活動においては、そのパターンは正に無限。
人工知能は無限のパターンを捉えることは出来ません。我々人間にかなうはずないではありませんか。
人間の価値は「勝ち」だけではありません。非合理性、人間の価値は無限です。わざと負けの手を指す、「負け」に価値を生むことだって出来るのです。
そんなことはあり得ないって? いえいえ、そう思うのは、合理一辺倒の文明社会の圧力によって、「勝ち」という価値観を植え付けられてしまっているからかもしれません。そうではないと言う証拠が、あなたの顔にあります。それは「笑い」です。「笑い」とは人が失敗にさえ価値を与えた証拠なのです。そんな人間の根源的な所作に、それは存在しているのです。
初めから決まっていない価値を見出そう
「生物は遺伝子によって利用される”乗り物”に過ぎない」
リチャード・ドーキンスの生物学書、『利己的な遺伝子』の回でこんな言葉をご紹介し、こう書きました。
「私たちは遺伝子によって利用される”乗り物”に過ぎない」のだったら、果たして私たちの意志とはいったいどこにあるというのでしょうか?
遺伝子に仕向けられているだけの行為だったら、崇高とか愚かと言う価値観さえ、否定されてしまいます。
その答えは、もしかしたら今回の記事から見つかったのかもしれません。人間の合理性、富の独占と言う目的は、遺伝子によって利用される乗り物として、生物として初めから決まっている価値感と言うことになるでしょう。ドーキンスの言うことを信じるならば、私たちは、遺伝子の命令通りに、決められた価値観の元で正にロボットの様に生きていると言うことになります。
しかし、我々人間はそれに背いて、非合理の価値、無限の価値を自ら見つけ出すことが出来るのです。それはもはや、遺伝子によって利用される”乗り物”から脱したのだと言ってもいいのでしょう。
こんな偉大な人間様に対してロボットが超えたなんて、とんだお笑い草だと思いませんか。彼らには、人間の尊さのかけらも存在しないのですから。そして、私たちの笑顔は神様が勝ち以外の幸せを人間に与えてくれたその証拠だと言えるのではないでしょうか。