当ブログの独自理論

突然ですが、当ブログの執筆において、大きな成果だったと思っていることが一つあります。それは当ブログが到達した独自理論(と思っている)、人間と言うものを「合理性と非合理性」という二面性を高度に備えた存在としてとらえることです。

この捉え方を用いることにによって、色々なことが整理され、わかってきました。名付けて、「合理性と非合理性の仮説」です! 今回、その仮説を用いて、ともに高尚なものとしてあげられる「学問」と「芸術」、この違いについても、説明できることが分かったので、書いてみたいと思いました。この二つは、近いようで実は全然似て非なるものだったのです。

 

まず、合理性の定義

まずは、人間を「合理性と非合理性」の2面をもった存在として考えることが、とても重要になのですが、そもそも、その合理性とはなんでしょうか? この言葉は、よく使われるし、イメージもわきやすいと思うのですが、実はこの定義はとてもあいまいなのです。

合理性(rationality)とは様々な分野で用いられる概念であり、法学において、物事が道理や論理に適っていることを指す

ウィキペディアの記載もこんなにあいまいです。この理論を構築するにあたっては、まず、合理性とはなにか? を考える必要がありました。当ブログが独自に弾き出したその定義は、

目的に対して最短で最大に結果を得ようとする性質のこと

です。まず、これに同意していただかないと、この先の話に進めませんが、決してこの理解は難しくはありません。例えば目の前の獲物の獲得が必要だったとして、これを素早く、一気に何十匹と獲得できるのが、合理性と言うことになります。

 

人間の突出した合理性

人間は、この合理性が他の動物に比べて突出している生物なんですね。動物はせいぜい、自分が食べる分しか捕まえることはしないし、出来ないですよね? 人間は、漁とかでも大量に獲得して、蓄えることもできるわけです。これはまさに合理性のなせる業です。そういった効率的な方法をより突き詰めていったものが「科学」と言えるでしょう。合理性の高度な到達点が科学だと言っていいでしょうね。

なぜ人類が他の動物に比べて突出した合理性を持つのかについては、生物学者の方にお任せするとして、そんな、一見いい事づくしにも見える人間の進化した合理性、ですが、やはり物には必ず、正負両面があります。

 

合理性の負の面

では、その負の面とは何でしょうか。それは、合理性が目的の最大成就を目指すのであるならば、それは結局、奪い合いになると言うことです。人間の目的とは多くの場合、欲望です。個人が獲物を多く得ようとするならば、限られたそれは結局奪い合うことになりますよね?

つまりは合理性の結果、争いが生まれます。限りある土地、権威を国家間で奪い合えば、戦争です。個人間であれば、単なる喧嘩です。これは目的(欲望)を最大限に果たそうとした合理性の結果なのです。これに、科学が絡んで、戦争はもはや物語すら生まない悲惨なだけの物となりましたね。

マーケットでは、1000分の1秒でお金を暴い合っています。素晴らしいように見えた人間の優れた合理性のなれ果てはこれなのです。むしろ愚かですよね? はっきり言って。

 

人間の突出した非合理性

合理性とは、結局、単なる奪い合いだった。この事実はいかがでしょうか。失望的な内容でしょうか。いえ、大丈夫です。人間は元元そんな愚かな物ではないと私は思います。人間と言うものは、合理性だけを進化させたのではありません。ちゃんと、その対極にある、非合理性も同時に進化させていたのです。

「極端な自意識過剰から一般社会との関係を絶ち、地下の小世界に閉じこもった小官吏の独白を通じて、理性による社会構造の可能性を否定し、人間の本性は非合理的なものであることを主張する」

~ドストエフスキー作 『地下室の手記』

この名作文学の岩波文庫のあらすじは散々紹介しておりますが、「合理性と非合理性、どちらが人間の本当の姿?」という答えは私には分かりません。しかし、人間がそのどちらも高度に備えた生物である、と言うことは間違いなさそうです。

人は合理性が他の動物に比べて突出して進化していますが、その弊害、負の部分を補うため、同時に突出した非合理性をも備えていると考えられるのではないでしょうか。

非合理性の定義とは何でしょう? これは単純に、

合理的でない性質

でもいいし、もっと飛躍して、

合理的ではない性質に価値を与えようとすること

とでもしておけばいいのでないでしょうか。合理的ではないことは、目的を果たせない、獲物を獲得できないと言うことになりますから、本来は単に失敗です。しかし、人間と言うのは、そこに価値を見出すことが出来るのです。「笑い」とは、そうして生まれると言うことは、過去の記事で記載した通りです。

これは非常に崇高な概念です。生物的には、失敗、無駄のはずの中に、人は価値を見出してしまったのです。これは凄いことだと思いませんか!

 

学問は合理性、芸術は非合理性

副題にした件にとうとうたどり着きました。「学問と芸術」とは、よく一色にされたり、しますが、これはこの理論上から似て非なるものだと言うことが分かりました。

学問の目的とはなんでしょう。それは、科学と同意義だと思いますが、目的の最短成就ではないでしょうか。「知る」ことによって、獲物を多く獲得すること、より豊かに生活すること。悪く言うと、人より多く知って、多く奪うこと、だと考えられますよね。北朝鮮の核開発は学問によるもの、なワケです。これは、合理性のなせる業です。

 

対して、「芸術」と言うものは、悪く言うと、無駄です。音楽を聴いたり、絵画を見たり、描いたりしてもより多くの獲物を得ることは出来ません。もちろん、評価されれば、お金をたくさんもらえるかもしれませんが、それはたまたま、合理的なこの世にそういうシステムがあるだけで、絵画を描くことは、本質的に物資的に豊かに暮らすことには何の役にも立たないのです。

それは、強く生きて、より多くの遺伝子を残す、と言う生物学的な目的の上では完全な無駄であり、たまたま人がそこに価値を見出しただけなのです。だからこそ、素晴らしいのだと言えると私は思います!

このように「学問と芸術」、この2つの物は、完全に性質の異なる物だったのです。だから、小説を「文学」と呼ぶのはおかしく、「文芸」と言った方がよりあっていると言えるでしょう。

そして、合理性と非合理性と言うものは、人間の生きる「幸せ」というものを生み出す価値観にも、非常に重大な影響を与える根幹と言ってもいいものではないでしょうか。