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”笑い”の解明 鍵は人間特有の「合理性と非合理性」
今回、非常に重大なテーマ、人間の「笑い」について書いてみたいと思いました。と言っても、「笑い」を取る方法をここでご紹介しようというものではございません。あくまで、人間特有と言ってもいい「笑い」という現象の本質を見抜く考察になります。そして、それは長年困難であるとされてきたことでした。
当ブログでは予てから、人間の持つ「合理性と非合理性」という二面性に注目してきました。そして、”笑い”というこのある意味不可解な現象も、この点から解読が可能であることが、当ブログの最新の研究(笑)によって、明らかになってきたのです。それをこれから、書き記していきたいと思います。
その答えはズバリ!
まず、ズバリ書きますが、それは「合理性の崩壊」をきっかけに起こる、「非合理性の肯定」の態度のこと、ではないかということです。「おかしい」というのは、つまり合理性が壊れた状態を表しています。そのためには、まず”合理性”を我々が理解している必要があります。こういう状態が合理的なのだと理解する能力、これが我々人間は他の動物に比べ突出して高いために笑うことが出来るのではないかと言えると思います。
しかし、合理性の崩壊が毎回笑いに繋がるかと言うと、必ずしもそうとは限りません。それは一つのきっかけにすぎません。そこに笑いが生まれるかは、それをどう捉えるかと言う我々の態度によるのです。
合理性とは何か
そんなこといきなり言われてもわからん! というところかと思うので、順序立てて書いていきたいと思います。
一つの重大な鍵は「合理性の崩壊、もしくは喪失」なのですが、まずはこの合理性の定義から始めたいと思います。実は、これはとてもあいまいなのです。ウィキペディアによりますと、
合理性(rationality)とは様々な分野で用いられる概念であり、法学において、物事が道理や論理に適っていることを指す
と記載されておりますが、まず、これをはっきりと定義します。当ブログにおける合理性の定義とは目的に対して最短で最大の効果を上げようとする性質のこと、です。これを突き詰めたものが科学だと思っています。
例から考えてみる 事態に接する態度
では、ここから、具体例を出して考えてみたいと思います。
一組の夫婦がいたとします。対岸に奥さんの大好きな木の実があり、それを夫が取りに行くとして、橋は5キロ先までないと言う状況。しかし、すぐそばに対岸まで届きそうな丸太が落ちている。
この場合、「木の実」を取るという目的を果たすための合理的な判断はおそらく、
「木材を対岸までかけて渡る」
と言うものではないでしょうか。彼はその通り、丸太を対岸まで渡して無事に渡ることが出来、木の実を得ることが出来ました。橋を渡りに行っていては、その数倍の時間がかかり、他の人に取られていたかもしれません。ですから、彼はかなり合理的な成功を収めたということが言えるでしょう。奥さんの評価もうなぎ上りです。
しかし、この後に”悲劇”がありました。彼は、渡り終える最後で足を滑らせ、木の実をすべて川の中へ落してしまったのです。自らもずぶ濡れです。それを見た奥さんの様子は果たして?
さて、こんな状況が実際あったとして、彼は木の実をすべて失いましたから、最終的に合理性が見事に崩壊してしまいました。そんな彼に対する奥さんの態度はどれでしょう? 一番に考えられるのはやっぱり”怒り”でしょうねえ。
「なにやってんのよ! だから、初めから橋を渡って行ってって言ったじゃない!」
おなかの減っていた奥さんからすれば当然かもしれません(笑)。ですが、こちらは負の感情ですから、お二人にとってかなりよくありません。奥さんは血圧が上がっちゃいそうですし、夫はずぶ濡れな上に、情けなさで、最悪な精神状態です。
では、次に奥さんがもっとおとなしい性格だったらと仮定します。そうした場合、彼女の反応は悲しみかもしれません。ふがいない夫に失望して、怒りさえ示さないものの、泣いてふさぎ込んでしまう・・。
「どうして、私はこんな人を夫に選んでしまったのかしら。私って不幸だわ・・」
これは怒りよりも更によくありません。
では、この事態に対する反応で、これよりいいのは、共感するという方法です。つまり、夫を責めたり、嘆いたりするのではなく、夫と一緒に怒り悲しむと言う方法です。
「大変、早く着替えて暖かくして。あなたは悪くないわ! 悪いのは、この丸太よ」
夫の失態を見て、こんな風に言ってくれる奥さんはまずいないと思いますが(笑)、これは人間関係として良好なものであると言えるでしょう。
事態に接する最高の方法は笑い
最期にこの事態に接する態度として、最高の方法は何かというと、もうお分かりと思いますが、それは「笑い」という態度です。
「もうなにやってんのよ~馬鹿ね~(笑)」
と夫と一緒に笑う。この方法は実に素敵です。彼の失敗も浮かばれるというものです。笑いとは正の感情であり、快の感情であり、笑うことが嫌いだという人は一人だっていないでしょう。笑うことが健康に良いという研究もあるようですが、研究しなくなってそうに違いないと言えるでしょう。
笑いの鍵は肯定出来るかどうか
木の実を失ってずぶ濡れになったという失敗くらいでは、十分笑いに出来る可能性はあるのではないでしょうか。川の流れが速く、夫が流れてしまったとすれば、当然笑っている場合ではありません。また、死ぬほど腹が減っていた場合も、シャレになりません。笑いに出来るかどうかの鍵は肯定できるか? にかかっているのです。
笑いのきっかけは合理性の崩壊にありますが、合理性が壊れると言うことは、私の定義によれば目的を果たせないことになります。ですから、負の感情、悲しみや怒りになる可能性は高いのです。
しかし、私たちがその事態、非合理性に対し肯定の態度をとることによって、はじめてそれが「笑い」という正の感情に変わるのです。そして、それは一見無意味な非合理性に価値を与えるという、おそらく人間だけに許された非常に崇高なことだと考えられるのです。
当ブログの理論と共通する天才芸人の言葉
天才芸人と称される松本人志さんが、この点に関して気になる発言をしています。
切ないものこそ笑いや。切なさは間抜けであり、間抜けは笑いである
~『松本坊主』~
また、どこかで「怒りと笑いは繋がっている」とも発言されていたとも記憶しています。世間は気軽に「天才」という言葉を使うものですが、彼の場合は少し他とは質が違っているかもしれません。
また故、立川談志師匠は「落語とは人間の業の肯定である」とおっしゃっています。
一番有名な「緊張と緩和」説のなぜに答える
そして、一番有名なのが、こちらで、落語家の桂枝雀さんが、
笑いとは「緊張と緩和」が生む
とおっしゃっていたそうですね。哲学者のカントも同じように言っていたとか。確かにこれは、「こういう時に笑いが生まれる」と言う説明しては、かなり的確だと言えると思います。
しかし、えらい方にケチをつけるようで、申し上げにくいのですが、残念ながらこれは正確には「なぜ?」と言う答えにはなっていないんですよね。
そんな、「なぜ?」にも大胆にお答えするのですが、緊張が強いられる場面と言うのは、生物として、目的に対してなんとしても成功を掴まんとしているとき、つまりは合理性が極度に追求されている場面です。これが「緩和」、当ブログで言うところの「合理性の崩壊」です。それは即ち失敗を意味するのですが、そんな無価値であるはずの失敗を肯定する態度を取った時に、「笑い」が生まれると言うわけです。
「なぜ?か」 それは、前述したとおり、人は合理性の崩壊、非合理に価値を見出したからだと私は思います。目的を果たせないことに価値を見出すなんて、本当に素敵だと思いませんか? 私はここに多大なるロマンを感じます!
笑顔の種類
ニヤニヤ笑い
笑いがすべていいものかと言うと、そうとも限らず、ニヤニヤ笑いは人から好感をもたれることはないでしょう。これはなぜかというと、相手の失敗、つまり、相手の合理性の崩壊を喜んでいる態度だからですね。
私の理論によると、成功して喜ぶ笑顔と言うものは、相手の負けを喜ぶ笑い、ということになってしまうんですね。成功は合理性の達成ですから、それ自体は笑いにはなりません。
営業マンの笑顔
営業マンは笑顔が命。よく聞くと思いますが、この意味を当理論的に解説しますが、これはすなわち、「あなたを合理的には扱いませんよ」という意志表示になります。営業マンは、営利のために活動しているのですから、顧客はつねに企業の合理性の対象です。
ですから、「私たちはあなたちを搾取しようとしているのではありません。私たちは非合理なんです」ということをアピールするために笑顔を前面に押し出しているわけですね。
にこにこ微笑み笑い
にこにこと相手に微笑みかける笑顔が好感されるのも、この意味合いだと思います。「私はあなたの敵ではない」つまり、「あなたを私の合理性の範疇では扱わない」ということです。この場合は、さらに、相手の人間性、強いては非合理性を肯定すると言う意味合いもあるかもしれません。であれば、好感されるのは当然で、笑顔は我々が仲良くするための最善の方法である、と断言できるでしょう。
笑いは独りでは起こり難い?
皆さんは、家で独りでいる時に、笑うことがありますか? もちろん、テレビやネットを見て笑うことはあるとは思いますが、それは一応相手がいることになります。完全な一人で笑うと言う状況は「自分の成功を妄想してニヤニヤする」とかですかね。人に見られたら、ちょっと危ない人ですよね。
昔、大学生の時に図書室のPCで外国人さんが映画を見ていて、独りで手を叩いて大笑いしていたのですが、少し奇妙でした(笑)。また、街中で独りで笑っている人を見かけると、不気味な感じがしますよね?
と言うことは、一人で笑うと言うのは特異なことである、と我々が認識していると言えそうです。これは「笑い」というものが、コミュニケーションのために存在してる可能性が高く、それは個体のための合理性ではなく、集合体のための非合理性とも言えるのでしょう。
最後にくすぐり笑い
最後に、人はくすぐられるとなぜ笑うのでしょうか? これも、言葉にヒントがあって、「くすぐられる」つまり、誰かにされると言うことです。自分で自分をくすぐってみても、あんまりくすぐったくないし、ましてや笑いなんて起きません。自分で自分をくすぐって笑っている奴がいたら、完全に頭のおかしい奴ですよね。
これは、くすぐると言う行為が、非常に親しい間にのみ成立するコミュニケーションである可能性を示していると言えるでしょう。くすぐりとは正に非合理な行為、遊びでありますが、された方はそれに笑いで肯定して返しているのです。やはり、ここでも肯定するという態度が鍵で、例えば、女性の方が親しくもない男性にくすぐられたらどうですか? 絶対に笑わないですよね? 激怒するでしょうし、男性は場合によっては刑務所行きです。
合理性ではなく、笑いを大事にして生きよう
以上のことから、「笑い」とは人間に与えられた非常に崇高な所作だということが分かりました。それは、怒りや悲しみと言った負の感情を凌駕する性質の物だということです。人間の非合理性を肯定することで、不幸な事態を笑いと言う、快の感情に変えることが出来るのです。それは非合理への価値の付加とも言えるのです。
もっと簡単に本当に一言でズバリ!言うと、「目的の喪失の肯定が笑い」ということになるでしょう。
この世はすでに、科学の発展により、合理性だけが異常に突出しているいびつな形になっています。目的に対してどれだけ早く到達できるかを日々競い合っています。そしてそれは、負の感情を増幅させる要因になっています。対して、私たちは、人間本来の非合理性を大事にすることにより、笑いと言う崇高な価値を手に入れることが出来、より幸せに生きていくことが出来るということではないでしょうか。