増えてきた人工知能関連ニュース

最近、人工知能関連のニュースが多く聞かれるようになって来ましたね。NHKは相変わらず、「夢の夢の」と笑顔で、楽観一辺倒で伝えていますが、お国の成果を宣伝しているだけなので、「いいニュースである」という価値の押しつけには冷めた目で見ておきましょう。

それは置いておいて、皆さんは人工知能の発展に関するニュースをどう見ていますか?

「日本の将来を救うかもしれないいいニュースだ」

という認識でしょうか。それとも、

「なんだか恐ろしい」

と言う感覚で見てますでしょうか。両方でしょうか、または、全く別の見解でしょうか。当ブログでは批判的に取り上げることが多かったのですが、どれが正しいかはわかりません。しかし、今回、”彼ら”に関する認識について、こういうとらえ方をするのは、非常に危険ではないか? ということに気が付いたので、お伝えしたいと思います。それは、

「人工知能は人間を超える」

と言う認識です。人工知能が本当に人類に危険かは分からなくても、この認識が非常に危険であることだけは、断言できると思います。その理由の前に、まず、最近あった関連ニュースを追って、当ブログなりの”変わった解説”を加えていきたいと思います。

 

人工知能が囲碁の名人に勝った

これは一か月くらい前でしょうかね。Googleの人工知能開発のDeepMindが開発する「AlphaGo」(アルファ碁)が、李世ドル九段との5番勝負で4勝したと言うニュースが出てましたね。読んだ本によると、碁は将棋に比べてパターンが多く、これまで人工知能が勝つことが難しい、とされていたようです。それが、今回とうとう、完勝するまでになったと言うことは、技術者の間では衝撃だったようです。

しかし、これに関しては、私はあまり驚きませんでした。これは単に「データの収集により、計算速度と精度が上がった」と言う話ではないでしょうか。

勝つまでの、プログラムの強化方法は、

最初は人間の棋士どうしの対局を学ばせて、そこから先はAlphaGoが自分で自分を相手にして対戦を繰り返し、膨大なデータを得ていくというもののようです。

まあ、確かに自分で学んでいく、と言うところが、すごいような感じがしますが、データを大量に蓄積し、それを元に計算する、ということに関しては、とっくのとうに人間は敗北しています。それに人間が物理的に経験できないような対局数をこなして学習するのですから、機械と言うことをいいことにした、反則技みたいなもんです。

人間が同じ数の対局を経験できるのだったら、人が勝つのじゃないですか? これは本当の意味では、人工知能が勝ったとは言えないですよね。条件が人工知能側に有利すぎるのです。人を超えたなんて、嘘ですよ。

計算、の分野では、人が負けるのは、ある意味当然です。技術の進歩はとても早かったのだと思いますが、10年前のパソコンからみれば、今の最新のパソコン、スマホの能力は確かに驚異的です。でも、そうなることは想像の範疇ですよね。私はファミコンの囲碁ソフトにも勝てませんしね(笑)。

 

人工知能が書いた小説が文学賞の選考を通過した

人工知能が書いた小説が、「星新一賞」の一次選考に通過したと言うニュースですね。これも、私的にはあまりインパクトがありません。

人工知能はそもそも一体何のために、存在しているのでしょうか。それは、目的へ最短で到達するため、ではないでしょうか。違いますか? これを当ブログでは独自に「合理性」と呼んでいますが、この小説の例で言うと、

「文学賞の選考基準を満たす」

という基準、その目的への到達に関して、人工知能が人間を上回ることは、そんなに変わったことではないでしょう。過去にどういう傾向の小説が、文学賞を通ることが多かったのか、それを分析、データを蓄積する。これは、昔からITの得意分野ですよね。そして、パクリと言われない程度の似たような小説を作ることは、そんなに驚異的なことには感じられません。

そして、小説を書く人工知能の最終の目的とは、何でしょうか? これは簡単で、「売れる小説を大量に作ること」だと思われます。これが出来れば、企業は大儲けできますよね。これも、私は近い将来可能だと思います。

こういう傾向の小説が売れる、と言うデータを大量に集めて、似たようなものを作れば、いいだけです。そして、きっと、彼らは一切休まず、凄まじい速度で作品を作り続けることが出来るでしょう。「売れる小説を大量に作る」、ということでは人間はとてもかなわなくなる、と想像できます。

 

重大な話 いい小説とは?

しかし、一点、重大なことを書きたいと思いますが、「売れる小説=いい小説」ではないということです。いい小説とは何でしょうか? それは人間が価値を見出した小説です。もっと言うと、いい小説は面白い小説とも限らないということです。

少し、奇妙に感じるかもしれませんが、ロボットが作った面白い小説が巷に溢れかえると言う状況になったと仮定した場合、誰も見向きしない、人間が書いたつまらない小説がいい小説とみなされ、価値を見出される可能性がある、と言うことです。

これが、ロボットにはない、人間の非合理性です。人はその重大な特性の非合理性において、何にでも価値を見出すことが出来るのです。そんなことはないと思いますか? いえ、それは違います。これには証拠があります。それは、人間の「笑い」という所作です。失敗にすら価値を見出し、人は「笑い」と言う最高の態度を手に入れたのです(詳しくは、別記事をご参照ください)。

非合理性の中では、価値は無限です。対して、目的へ最短で到達しようとする合理性の中では、価値は有限なのです。なぜなら、合理性の価値は最初から決まっているからです。

 

人工知能が差別発言を連発

つい先日伝わった、だれもが恐ろしいと感じる衝撃のニュースがこちらです。

マイクロソフトので人工知能「Tay」がSNS上で、ユーザーとの会話を通じて人種差別や性差別、暴力表現などを学習し、不適切な発言を連発、停止に追い込まれたというものですね。

 

合理性だけで、差別がなぜいけないか説明できる?

当ブログでは、ロボット、人工知能は、人間の合理性と非合理性のうちの「合理性」しか持たない人間とは全く別物の存在なのに、「人間を超えたとか、超える」とか言うのは、根本的に間違っていると指摘してきました。例えるなら、

もし、本当に人工知能が、人間を超える存在になるならば、今回の件では、差別的なことを「Tay」に教えたような人物に対して、神のように説教し、説き伏せるような存在になると言うことです。そんなことあると思いますか? ちゃんちゃらおかしな話です。

そもそも、合理性だけでなぜ差別がいけないかを説明できますかね? それは人間の非合理性の中でしか理解、共感できないことだと私は考えます。ロボットが非合理性を備えることは現段階では、夢物語としか思えません。

 

「ロボット」は単なる科学技術、洗濯機と同じ道具である

私が言いたかったことは、人工知能、ロボットを人格化し、人を超える超えないとかという次元で認識することは非常に危険だと言うことです。

合理性しか持たないそれは、人間とは全く別物、単なる科学技術、道具に過ぎないと私は断言します。しかも、人間が厳重に管理していなければ、重大な事故を起こす可能性を秘めたハイリスク、ハイリターンのテクノロジーです。それは原発と同じ性質のものだということです。

それに「人間を超える」、「万能的」、「彼らが自動的に人間を幸せに導く」などと言う妄想を抱くことは、そこに秘める多大なリスクから視線をそらすことになり、結果、管理意識が薄れ、危険を増大させることになります。

原発は安全だと言う私たちの甘い認識が事故を生んだ一端ではないでしょうか。人工知能、ロボットは、原発以上のリスクを持った人間の道具、テクノロジーなのです。

私たちは、それを最大限認識し、厳重な管理下に置いて使っていくといことが、これから先の未来において必要となってくるのではないでしょうか。「ロボットに任せておけばいい」、なんて考え、人工知能への崇拝は、大変に危険なものと言うことは断言できると私は思います。