皆様、実は当ブログ、最初は書評ブログだったことをご存知でしたか? まあ、どうでもいいと思いますけど(笑)、うちは政治・経済だけのブログじゃね~んだぜ、と言うところをお見せいたしましょう。
最近読んだこちらの本、すごくいい物だったので、ぜひご紹介したいと思ったのです。
他者が苦しむのを目にするのはじつにつらい。だが、もちろんそれこそが共感の核心ではないか。
ドゥ・ヴァールさんのこの考え方が、イデオロギーとして正しいのか、正しくないのかはほっておいて、単純に私はこの考え方がとても好きです。
合理性のみが正当化された社会
アメリカはスペンサーの言葉に熱心に耳を傾け、ビジネス界はそれに飛びついた。アンドルー・カーネギー競争を生物の法則と呼び、それが人類を進歩させると思っていた。
現代社会は、競争を社会原理として、正当化し成り立っていますよね。金持ちはその成功者として、崇拝され、彼らは偉いのだと啓蒙され、その真似をするように促される。
でも、この本を読むとこの考えって間違ってんじゃね?って普通に思わされるんですね。いや、正しい、正しくないで言うと、道徳論の戦いになってしまうので止めるとしても、彼らのこの考えは、自分たちの強欲を正当化するためだけの詭弁であることがはっきりと分かるのです。
ジョン・D・ロックフェラーは、それを宗教とまで結び付け、大企業の成長は「自然の法則と神の法則がうまく働いた結果に他ならない」と結論した。
ジョン・D・ロックフェラーさんには悪いですが、少なくとも、それが自然の法則、神の法則ではないのは、明らかです。しかも、彼らは強欲の後ろめたさから自分を守るために、神様にそれを語らせました。
これは、かなり甘えていると言わざるを得ません。
もし神があれば、神の意志がすべてだ。したがって、僕も神の意志から一歩も出られないわけだ。ところが、神がいないとすれば、もう僕の意志がすべてだ。したがって、僕は我意を主張する義務がある。なぜって、一切が僕の意志だからだ。人間は神を滅ぼして、我意を信じておきながら、最も完全な意味において、この我意を主張する勇気のあるものは、わが地球上に、果たして一人もいないのだろうか。
『悪霊』 ドストエーフスキー
私は彼が自分の意志でそれを語ったのだったら、少しは彼を認めたかもしれません。しかし、彼は自分の欲のための出鱈目を神に語らせ、罪悪感から逃げた。なぜなら、当然、彼にも他人の苦痛を辛く思う、「共感」が生得的に備わっていたからです。
どうでしょう、ロックフェラーさん、図星でしょ?
聖書は、ほとんどのページでも私たちに思いやりを示すようにとしきりに促す
宗教の本来の姿は、人間の強欲、合理性が行き過ぎないように、我々に教え導いてくれるものだったのです。
人間は本来、強欲一辺倒、競争一辺倒の生き物、勝てばそれでいい、と言う生き物ではありません。 ドゥ・ヴァールさんは、私たちが忘れかけたそれを鮮明に思い出させてくれるのです。
人は合理性と非合理性を持った生き物
極端な自意識過剰から一般社会との関係を絶ち、地下の小世界に閉じこもった小官吏の独白を通じて、理性による社会構造の可能性を否定し、人間の本性は非合理的なものであることを主張する。
『地下室の手記』 ドストエーフスキー 新潮文庫の解説から
ドゥ・ヴァールさんの本を離れ、僭越ながら私のブログの考え方を紹介させてもらうと、人間と言うのは、合理性と非合理性の二つの性質を高度に合わせもった生物だ、と言う独自の考え方をここで提唱してきました。
合理性とは目的に対し、最短で最高の効果を上げる性質のこと
と定義し、
非合理性とは、合理的でないそれ以外の性質のこと
と考えてきました。人間の活動の中で、文明、科学は合理性の最たるもので、文化、芸術や遊びなどは非合理性です。そして、共感も非合理的な性質だと言えるでしょう。
この二つの性質が混ざり合って、人間は人間らしくあるんですね。
「人間とロボットの違いはなんだ!?」「人間らしさとは!?」
科学者の皆さんは、それを探すために必死に研究しているようですが、当ブログでは、「合理性しかないのが、ロボット」です。と結論を出してしまいました、ごめんなさい。
そして、現代社会は、このうちの合理性に偏り過ぎているのです。これは、はっきりと問題だと言えるでしょう。イデオロギーの正しさを人に示すことほど、難しいことはありません。
しかし、人間の本来ある機能のうちの片側が軽視されて、偏った状態になっている、このことが健全でないことは、全世界の人々が理解できることではないでしょうか。
だって、偏っていることがよくないのは、小学生でも分かります。
「私たちの遺伝子の中身や、ニューロンの性質や、進化生物学の教訓から、自然は競争と利害の対立に満ちていることがはっきりした」。保守派はこう言う考えが大好きだ。
彼らの見解には実体がないというわけではないが、社会を組み立てる理論的根拠を探し求めるものは誰もが、これが真理の半面でしかないことに気が付かなくてはいけない。この見解は、私たちの種が持つきわめて社会的な特筆を大幅に見過ごしている。共感は人間の進化の歴史上、不可欠の要素であり、しかもそれは進化の新しい段階で加わったものではなく、遥か昔からある生得的な能力なのだ。
合理性の限界
合理性は最短で最高の結果に辿りつこうと言う性質のこと、と書きました。これを突き詰めるとどうなるかと言うと、合理性同志の競争の中、強い合理性への独占が進みます。そして最終的には完全に停止してしまいますよね。
合理性は有限なのです。
ですから、このままの状態を続けていると、やがて資本主義社会は終焉してしまいます。
私は共感が進化の歴史上とても古いものであることを思うと、なんとも楽観的な気分になる。共感は確固たる特性と言うことであり、事実上すべての人間の中で発達するから、社会はそれを当てにして、育み、伸ばしていくことが出来る。共感は人類に普遍的な特性だ。
合理性に偏った不自然な状態を、人間本来の姿に戻すことで私たちは、より長く、よく生きていくことが出来るようになるのかもしれません。
私たちは「新しい人間」は作り出せないかも知れないが、古い人間を修正することには驚くほど長けている。
そのためにまずは、気づくことが重大かもしれません。そのためにこの本は存在しているのではないでしょうか。
幸せとは?
さて、では人間の幸せとはなんでしょうか。幸せに暮らせる社会とは?
情けも道徳も持ち合わせていない人間は、私たちの周り中にいて、目立つ地位についていることも多い。
お金があれば幸せでしょうか?
利己的な動機と市場の力だけに基づいた社会は富を生むかもしれないが、人生を価値あるものにするまとまりや相互信頼は生み出せない。だからこそ、幸せの度合いを調べると、最も豊かな国々ではなく、国民の信頼感が最も高い国で、最高レベルが記録されるのだ。
しあわせには、もう一つの漢字がありますね。「仕合せ」、つまりは人の繋がりのことです。これを本当のしあわせというのではないでしょうか。
現代の幸せとは、単に隣の家より生活水準がいいことを言っているように思います。誰かより有利に生きる、これが合理性の本質ですが、現代の幸せはその一部になってしまっているようです。
その道具とは、他者とのつながりを持ち、相手の立場に立つ能力で、
(中略)
この生まれながらの能力を活かせば、どんな社会も必ずやその恩恵に与るだろう。
文明社会の末期?に生きる我々に、フランス・ドゥ・ヴァールさんは、実に貴重な価値観を与えてくれます。私たちの価値観次第で、この世界は永らえ、より良いものになる可能性を秘めているのかもしれません。
そんな気にさせてくれるこの本は間違いなく、名著だと言えるでしょう。