ホラー小説の古典といってもいい、こちらの作品です。誰でも、一度くらい題名を聞いたことがあるくらい有名ですね。テーマはご存知の通りの「二重人格」ですが、医学的な病気としてのそれをリアルに描いたものかというと、そうではないようです。作者の意図はもう少し別のところにあったと思います。

 

この小説は、1886年に書かれていますが、ちょうどこの頃は、いわゆるエンターテイメント小説が出始めた頃なのでしょうか。私の勉強不足でよく分からないのですが、文学的な文章と、読者を怖がらせて面白がらせよう、というエンターテイメント的な要素が混在しています。

これより以前の文学には、小説で読者を怖がらせよう、という発想は決して見られませんので、エンターテイメント、ホラー小説の発祥といってもいいかもしれません。
「二重人格」と一言で言っても、色々あります。先ほども書きましたが、精神疾患であるそれと、この小説内で描かれているものは、違っています。なぜそう思うかというと、病気であるそれは、誰でもなりうる可能性があるとはいえ、実際はきわめて特殊な状況下で発症するものであり、ほとんどの人には無縁のことだからです。

著者のスティーヴンソンは医者でもないですし、そんな特殊な病気を、わざわざ小説を使って読者に紹介しようとしたわけではないでしょう。関係なければ、知らなくてもいいこと、とまで言ってしまっては言いすぎでしょうか?

しかし、この小説で描かれる「二重人格」は、現代人なら誰もが内に抱えていて、知らずのうちにでも経験している普遍的なものを描いています。現代人ならと書いたのは、やはりこの小説でも、突き詰めた描写はないものの、やはり「文明」の影を感じるからです。

 

文明社会の歪によって、分裂せざるを得ない人格、そういった問題を抱える現代人の苦が、「格式高い博士」という象徴、によって描かれています。この「格式高い博士」という存在は文明社会によって、出来上がるものですものね。

人はそれだけ、社会の中で無理をして自己の存在を保っているということが感じられます。しかし、本当はそれに耐えられない自分がいます。これが誰にも存在する「ハイド」です。

大人なら、誰でもあることですよね。また、そうせざるを得ないことですもんね。病気でもなんでもなく、きわめて身近に存在することとして、私たちの胸に迫ります。

 

同じようなテーマの作品にドストエフスキーの、その名もずばり『二重人格』という作品があります。こちらは文明に押しひしがれる人間の姿がもっと克明に描かれています。こちらは、エンターテイメント要素はなく、ごりごりの文学です。その表現されている「二重人格」の内容は『ジーキル博士とハイド氏』よりも深く、ドストエフスキーの才能のすごさを垣間見ることが出来ると思います。
しかし、『ジーキル博士とハイド氏』はエンターテイメント小説と文学が融合し、絶妙なハーモニーとなっていて、とても面白いです。ホラー小説のはしりとして、その出発点を見たような気がしました。