『ジーキル博士とハイド氏』のところで、紹介した『二重人格』が今回です。

「主人公は小心で引っ込み思案の典型的小役人。家柄も才能もないが、栄達を望む野心だけは人一倍強い。そんな内心の相克がこうじたあまり、ついにもう1人の自分という人格が現れた! 精神の平行を失い発狂してゆく主人公の姿を通して、管理社会の重圧におしひしがれる都市人間の心理の内奥をえぐった巨匠の第2作」

 

これは岩波文庫の表紙の解説です。これは見事にこの小説を表しているな、と思いますが、

「管理社会の重圧におしひしがれる都市人間」とは何かというとそれは私たちサラリーマンです。サラリーマンだけとは限りませんが、一番分かりやすい例ではないでしょうかね。

私もサラリーマンですが、会社では、別の人格を求められます。紳士的な振る舞いや、ビジネスマナーといったものです。スーツを着るのも、その一種です。

ですが、私は元々そういった人間ではありません。差し出された名刺をわざわざ両手で受け取るほど、全ての相手を尊敬していません。しかし、そういったことをやらなければ、商談は成立してくれません。

 

しかし、人間は本来、そんな紳士的な生き物ではないのです。実際にそんな人は本当は1人もいないのです。文明社会においては、そんな嘘をつくことを誰もが強制されているといっていいでしょう。なぜそれを放棄できないかというと、紳士的振る舞いをうまく出来たほうが利益を多く受けられるからです。

 

正直な「坊っちゃん」では敗退してしまうからです。つまり、利益を上げたい欲望が人一倍強い、この小説の主人公は、よりうまく、紳士をやらなければならないという観念が人より強いわけです。しかし、それを出来る能力は決して高くない。だから、理想と現実のギャップに苦しみ、その結果、「二重人格」がやってくるのです。

しくみは、『ジーキル博士とハイド氏』とまったく一緒だと思います。善と悪とか、そういうことじゃないと思うんですけどね。

 

「小心で引っ込み思案」

これは私たちみんなですね。

 

「栄達を望む野心だけは人一倍強い」

これは、人によって違うでしょうが、私たちは会社のために、それを望む様に仕向けられます。管理社会の重圧とはまさにこのことですね。

 

「二重人格」を生む要素は、私たちのすぐそばにあります。重要なことは、私たちは本来、人生の多くを費やすビジネスの場において、作り上げた人間像のような生き物ではない、ということです。それは誰もが、文明社会において無理やり、やらされていることなのです。

そのおかしさを、みんな何処かで感じながら、でもまじめに考えたら大変だから流してる。きっとみんな何処かでおかしいと気づいてますよね。そんな気がします。

 

ドストエーフスキーは、わずか二作目で、20代でこんな作品を書き上げました。すごいとしか言いようがありません。