久々にエンターテインメント系です。
※ネタバレあります。

 

テーマ 無償の愛は存在する?

この小説はとても面白いのですが、いろいろ見ていると「切ない」と言う感想が多いようです。何が切ないかと言うと題名にもなっている『容疑者Xの献身』。

言い換えるとXの無償の愛です。この小説のテーマとも言える、この「無償の愛」ですが、実際、本当にあるんでしょうか? これが本当にあるかどうかはこの小説の評価に直結する気がします。現実的に存在しなければただの夢物語で終わってしまいますからね。この観点で今回は考えてみたいと思います。

 

無償の愛と聞くと、一番に思い浮かぶのが、母親の子に対する愛でしょうか? 確かにこれは一見「無償」のように見えますが、子は親の子孫を後世につなぐ役割がありますので、元気に生きて子を産めばそれがそれが親への報いになり、厳密には「無償」とは言えないでしょう。

親子間でも「無償」なんてなさそうですから、恋愛においては、そんな物はない、誰も相手が自分に振り向かないのを知って愛を注ぎ続ける馬鹿はいない、そう思っていました。しかし、この小説を読んでもしかして・・・と思いました。ではどんな場合に?

 

それはまさしくこの小説のような場合じゃないでしょうか。それは殺人が起きるような特殊な場面のことではなくて、ごく普通にある、容疑者Xと靖子のような関係の場合です。

 

靖子とXの恋愛的立場から見る

小説内に書いてありますが、容疑者Xは靖子に惚れているのですが、残念ながら、この二人はつり合いが取れていません。靖子は美女なわけですが、容疑者Xはイケメンでなく、靖子はまさに高値の花なのです。

だからこそ、無償の愛が成立するのではないか、そして、男性から女性への場合のみにおいて、そんな風に思います。男は恋愛において自分がどれくらいの地位であるかを高校生くらいになれば、みんな知っています。

高値の花を好きになったって振り向かれるわけありません。だから、基本的に男性は高値の花に惚れることはないのです。それは無謀であり、完全に無駄であるからです。これが女性とは異なるところです。

 

女性は本来男性より魅力的であり、その気になれば、トップの男性の女になることは可能です。女性も高値の花の男性を追いかけることはあるでしょうが、それは釣り合うと信じての行動であって、無償の愛を注いでいるわけではないでしょう。遊ばれてやっと気づくわけです。ここが男女の違いです。

 

しかし、まさに不覚にも彼は高値の花に惚れてしまったのです。(これがこの小説のフィクションらしいところではないでしょうか。すごく頭のいい彼がこんな無謀な恋に落ちることは実際はない! と私は思うのですが、どうでしょう・・・)

 

美化される靖子とXの関係 東野圭吾してやったり!

これが彼の不幸の始まりでした。私に言わせれば、靖子はXにとって、疫病神以外の何物でもありません。彼の人生はおかげで無茶苦茶です。ネットを見ると、Xは靖子のおかげで自殺を思いとどまり、生きる希望を与えられたとかいい事のように書いている方もいますが、ちゃんちゃらおかしいです(笑)。

結果的に罪もない人を殺してしまっているのですから、そのまま死んでいた方がよほどよかった、はずです。少なくとも人道的には間違いなくそうでしょう。フィクションとは言え、こんなことをいう人は、この作品に恋をして盲目になってしまったということで、東野圭吾、まさにしてやったりです(笑)。

 

靖子は最期までXには惚れていない 男性はみんなそれを知っている

惚れた時点で彼は無償の愛を注ぐしかなかったのです。彼は数学者なので、靖子が自分の物にならないことは方程式で分かりきっていたのです。ですから、最後に靖子がXを追っかけて自首してきたのは、彼女はあくまで真面目な義理堅い性格だったからであって、Xに恋を感じたからではない、と断言したいと思いますね。

もし、万が一恋のためなのであれば、無償の愛は成立しません。この小説の価値はだいぶ薄れることでしょう。それに世の中、そんなに甘くはないです。こんなことくらいで美女が野獣に惚れることがないことは、男性はみんな知っていると思います。少なくとも私は知っています(笑)。

 

「恋愛」って女性のための言葉?

男性は恋愛において、非常に悲しい立場の生き物です。この小説はその性を非常によく表しているな、と思います。恋愛とは女性のためにある言葉ではないでしょうか?

 

秘密でも思ったのですが、東野さんは小説内で女性を立てるのがとてもうまいです。女性をつかめばうまくいくことを、とてもよくご存じなんでしょう。この小説内では男性は完全に敗北です。無償の愛なんて注がされたら、どうしようもないです。

だから、私は感動なんてしません。男性は感動している場合ではありません(笑)。