当ブログは副題にしているのが、テーマのブログになるのですが、今までの記事を改めて読み返すと、どこの馬の骨ともわからん奴なのに、なんとも生意気な記事ばかりを書いているもんだと思います(笑)。

そして、それにも懲りず今回もさらに生意気な記事を書いてみたいと思ってしまいました。それは題名にしました「しあわせ」の本当の意味です。生意気にも当ブログなりの特別な考え方が示せるのではないかと思い、筆を取った次第です。ちなみに幸せとは本来、「運命」のことなんだそうですが・・。

一般的な幸せの定義

さて、ではまず「幸せ」の本来の意味を調べてみることから始めてみましょう。

①めぐりあわせがよい・こと(さま)。幸運。幸福。
②めぐりあわせ。運命。
③ことの次第。始末。

~ 大辞林 第3版 ~

ということです。いかがでしょうか。特に違和感はないでしょうか。このうち一般的に使う意味が多いのは、①になるのかと思います。めぐりあわせが”よい”こと、ですね。なんだ、簡単ではないかということになるのですが、そう焦らずに②と③も見てみましょう。

これも単純なのですが、②と③は①から”よい”を抜いたものと見ることが出来ますね。それはいいも悪いも関係なく、めぐりあわせそのもの。「運命」とも書いてありますが、これは悪い意味で使うことも多いですもんね。

ここでの新しい発見は、しあわせには、いいという意味だけではなく悪いも含めた、めぐりあわせそのもの、という意味があったということです。

幸せは比較の中で生まれる?

ではいい意味での幸せの、「よい」とはどんな状況でしょうか。これを一言で言い表すことが出来る方はいますでしょうか。

「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」

と日本国憲法に書いてありますが、これは幸せとは言わないでしょうか。あくまで最低限度なので、幸せとは言わないというのが一般的な感覚なのかもしれません。

では最低限度以上が幸せだとすると、そうなるために必要になってくるのは何かというと、それはお金ですよね。

「幸せはお金で買えない」とかいう言葉が流行ったりしましたが、ここから考えても、それは企業が作り出した嘘ではないでしょうか(笑)。そう、「幸せ」には、お金が必要だったのです。

そして、「よい」という観点で幸せを捉えるとき、その基準になるのは、誰かとの比較ではないか、という可能性をここに記しておきたいと思います。誰かより良ければ、それは幸せだということになる、という事実です。

ちょっと、不穏な空気になってまいりましたね(笑)。しかし、基準の判断に人は絶対的な尺度なんて持っていませんから、これは否定のしようがないのです。

アマゾンの原住民が答えた「しあわせ」の意味

さて、私がなぜこんな考えに至ったかというと、そのきっかけはとあるテレビ番組でした。それがこちらです。

第4集 最後のイゾラド 森の果て 未知の人々

この番組は文明社会に接触したことのないアマゾンの最後の原住民を取材するドキュメンタリーなのですが、この中で原住民と話す機会を得たNHKのディレクターはこの中で、

「あなたたちは”幸せ”なのですか?」

と尋ねたそうです。そうしたら、彼らの答えは「わからない」だったのです。

私は、彼らが幸せをわからないと答えたのは、文明を持たないため、誰かに比べてよい、という発想がないからではないかと考えました。おそらく彼らは生きていくだけで精いっぱいなのです。

誰かよりよくなろうなどと考える余裕はきっとないのだろうと想像します。皆で力を合わせて皆で生き残ろうとするだけなのだろうと。彼らのしあわせは、「幸せ」ではなく、「仕合せ」、すなわちめぐり合わせ、運命そのものの意味なのではないかと、あくまで想像にしか過ぎないのですが、そう思いました。

自殺者が増えるのは「不幸」のせいではない?

最近日本では自殺者が増えているというニュースをよく聞きます。これはなぜでしょうか。初め私は「格差が広がっているかな?」と考えました。しかし、もう少しよく考えてみると、人が失望を感じて自殺を選ぶ場面というものは、孤独に理由があるのではないかと思い直しました。

例えば、この先、格差がさらに広がって、貧困に追いやられる人が増えたとして、その人たちが皆自殺を考えるでしょうか。決してそんなことはないのではないでしょうか。なぜなら、脱落したのが自分だけでなければ、皆で力を合わせてその不合理と戦うこともできるのです。

対して、皆が中流ばかりのところで、自分一人だけが脱落したと感じたらどうでしょう。それは相当な疎外感を感じて、自分はやっていくことが出来ないと諦めを感じても不思議ではないでしょう。人は怒りの諦めが悲しみにつながるのだと思います。

本当の「しあわせ」を教えてくれる文学作品

そして、しあわせにはどうやら「繋がり」という意味合いもあるようなのです。私たちに本当の「しあわせ」の意味を教えてくれる名作文学があります。

それは誰でも題名を一度は耳にしたことがあるであろうビクトル・ユーゴーの『レ・ミゼラブル』です。主人公のジャン・ヴァルジャンは貧困から一切れのパンを盗んだことから不幸のどん底とも言える人生を歩みます。しかし、彼は死ぬ間際愛する人に看取られる中、こう言います。

「万事が望みどおりにならないからといって、それで神を恨んではいけない」

~  レ・ミゼラブル』 青空文庫 

彼が全身全霊で引き受けたそれは、まさに本物の「しあわせ」だったのではないでしょうか。そして、愛される人々の中で息を引き取るというそれは、最高のめぐり合わせだったとも考えらるのではないでしょうか。

「幸せ」の手に入れ方

「幸福になるにはどうしたらいいでしょうか。ああこの私が幸福になるには! そもそも私に幸福になる権利があるのでしょうか。私は人生の外にいるものです」

同作品の中でジャン・ヴァルジャンはこう叫びます。私たちが幸せになるのはどうすればいいのでしょうか。その答えはいろいろあると思いますが、私が一つ残酷な事実としてお伝えするとするならば、幸福は人類全体で見たときに限りあるものである、ということです。

これはより多くの幸福を手に入れるということは、誰かの幸福を奪わざるを得ないということです。前述したとおり、幸福の条件が豊かさである限り、これは逃れようのない事実です。過度の幸福は誰かの不幸の上に成り立っているという、頑然たる事実がそこには存在しているのです。これが格差と言われるものです。

日本を含めた先進国は世界的に見てだいぶ裕福ですから、すでに相当幸せです。それは資本主義世界における勝利と言ってよく、幸福は奪い合いの勝利の結果だというのが、これまた一つの残酷無比な事実なのです。

「幸せ」は現代文明社会に仕向けられた価値観?

「誰かよりいい生活をしている」これが現代における幸せの価値基準のうちの一つだと思います。そしてこの価値基準によって成り立っているのが、現代文明社会です。みんなが誰かよりもいい生活をしようと躍起になって競争しなければ、この世界は成り立たないのです。

現代の幸福はお金で買えるのです。

ということは、辞書に載っていた①の意味は資本主義、現代文明社会によって作られたものである可能性もあるでしょう。そして、アマゾンの原住民が「幸せ」は分からないと答えた意味も見えてくるのかもしれません。

そして、この記事を読んだ方がこの先、「私はなんて不幸なんだ」と絶望する場面に出くわした時、その不幸は本当は、しあわせの一部分であり、幸せは必ず誰かの不幸の上に成り立っており、幸せは所詮奪い合いに過ぎない、という考えがほんの少しでも何かの助けになればこんないいことはありません。

そして、めぐり合わせ=人の繋がりです。結局、これこそが「しあわせ」の本当の意味するところろというのが、生意気な当ブログのいったんの結論、ということになるのですが、いかがでしょうか。