昨今のコロナ騒動にいいところがあるとすれば、実に多くの本質を曝け出してくれたことと言えるでしょう。その一つに長年謎とされてきた?日本人の宗教観があるように思います。

日本人の宗教観=日本人像とも言えます。それを知ることは、日本人を知ることになります。

日本人の奇妙な宗教観

日本人の本質は外国人に理解しがたい、そんな話をよく聞きます。それがなぜかと言えば、日本人の宗教観が、理解出来ないからかもしれません。

日本人が当たり前と思っている考え方が、世界では「不思議で奇妙」と思われることが多い。特に宗教に関してはこれが当てはまるようだ。

日本人の宗教観は奇妙か、それとも他国が奇妙なのか ダイヤモンド・オンライン

日本人に統一的な宗教は存在しませんよね。だからと言って、明確な無神論でもない。そもそも日本人は宗教を信じているのか、それすらはっきりしないのです。

日本人の回答のうちで最も多かったのは、(4)の「神の存在を信じる時もあるし、信じない時もある」の32.2%であり、これが選択肢の中で最も多かったのは日本だけである。また、この回答率は2番目に値の高かったハンガリー(19.2%)を大きく凌駕している。

時に信じたり信じなかったり・・都合よすぎ! 絶対、神様から嫌われてますね!

神仏については、はっきりさせることもないとする精神性は、日本では古来のものらしい。吉田兼好は「徒然草」で次のように言っている。

(中略)

前半は、中世でも現代でも同じなのかとびっくりしたのでやや長く引用したが、後半で神仏については単純に信じてもいけないし、だからといって嘘と決めつけてもいけないとしている点に引用の趣旨がある。

「ったく日本人はよ!」

私が神ならそう思います。

宗教とは何か

そもそものそもそもですが、宗教とはいったい何なのでしょうか? 「宗教とは何か?」を見事に表現している言葉を紹介したいと思います。

たとえ真理はキリスト以外にあるということを、数学的に証明してくれるものがあっても、自分は真理とともにあるより、むしろキリストとともにとどまるを潔しとする。

『悪霊』 ドストエフスキー

世界文学最高の巨匠であるドストエフスキー先生のこの言葉こそが信仰であり、宗教じゃないかと思うのです。じゃあ、やっぱり信じたり信じなかったりする日本人の信仰心は不埒、私たちは元々宗教心を持っておらず、適当に合わせているだけなのでしょうか?

「信仰や信心をもっている」より「もっていない」人が多い、すなわち無宗教の人が多いにもかかわらず、宗教心は大切にするのがどうやら日本人の不変の考え方のようである。

ところが、日本はかなり変わっている。無宗教の者が多い割には、宗教心を大切にする者がやけに多いのである。日本人は宗教を捉えるフレームワーク自体が他国と異なっているともいえる。

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まあ、とにかく、やっぱり日本人は変なのは間違いないみたいです!

日本人は何を信仰しているのか

ですが、昨今実は、日本人が外国人に負けず劣らずの強い信仰心を持っていることを発見しました。そのきっかけが、コロナ騒動でした。

昨年の今頃、コロナが原因で死んだとされている人は、百数十人しかおらず、40代以下の死者は数人でした。しかし、日本人の大半は、それを「緊急事態」だという政府のお告げを何の疑問もなく受け入れたのは記憶に新しいところです。

さて、ここでドストエフスキー先生の言葉をもう一度思い出してみましょう。

たとえ真理はキリスト以外にあるということを、数学的に証明してくれるものがあっても、自分は真理とともにあるより、むしろキリストとともにとどまるを潔しとする。

それが緊急事態ではないという真理は数学的に証明されていましたよね? しかし、日本人はその真理とともにあるより、むしろ公的権力とともにとどまるを潔しとしたのです。

これは、日本人が欧米や中東の人々以上の統一的な宗教心を有していることが発露した瞬間だったと言えるのではないでしょうか。

日本人が世界中の他の国の人々より、強く厚く信仰するものとは「公的権力」だったのです。

さて、そうなるとある問題が生じるのです。キリスト教やイスラム教の信者にとって、キリストやアッラーは唯一絶対の存在かも知れませんが、「権力」こそが神である日本人は、誰かを信仰の対象にし続けることが出来ないのです。

権力は、普遍の物ではないからです。

コロコロ変わる

日本人の信仰がころころ変わる理由はこれでしょう。日本の「権力者」に対する世論は、1年前とは180度変わってしまったことに皆さんお気づきでしょう。

絶大な人気を誇っていた小池都知事や吉村府知事が、コロナに対する対応をぼろくそに叩かれるようになりました。海外でもその傾向はありますが、恐らく、ここまで短期間に一斉に極端に変わってしまったのは、日本だけではないでしょうか。

彼らはニセの権力者だと気づかれて支持を失った結果、即ち「力」を失ったため、日本人は一斉に手のひらを返したのです。彼らは1年で神の座から引きずり降ろされたのです。

私の経験では、優れたリーダーほど支配が長続きし、残忍なかたちでその支配が終わる可能性が低い。これについては信頼できる統計がなく、例外があることは私も承知しているが、他の者たちを恐怖に陥れることによってトップの座にとどまるオスは一般に、二年ぐらいしか君臨せず、ベニート・ムッソリーニと同じような悲惨な結末を迎える。

『ママ、最後の抱擁 わたしたちに動物の情動がわかるのか』 フランス・ドゥ・ヴァール

日本政府は元から比較的弱いので、あまり恐れられておらず、日本人はその上位組織である米国を信仰しているようですね。

たとえ黒いものでも上の者が白と言えば白になる

長い物には巻かれろ

これらの有名な言葉は、日本人の宗教観を適切に表していたのです。

私は来日してからずっと不思議に思っていた。日本人はなぜか欧米、特に米英仏伊の4カ国にすごく詳しい。

(中略)

新型コロナウイルスは、世界中のあらゆる「建前」や「ポリティカル・コレクトネス(政治的正しさ)」の裏にある本音をあぶり出してしまった感がある。その1つが現在問題になっている東アジア人差別だ。欧米に住むアジア人は、多少なりとも差別的な扱いを受けたことのある人がほとんどだろう。だが一部の人を除き、多くのアジア人は波風を立てないように人種差別を大きな問題にすることを避けて、欧米白人社会に溶け込もうと努力してきたように思う。

なぜ日本人は、こんなに白人好きなのか…戦争の過去や差別は気にならない? NEWSWEEK 日本版

この記事にコメントを付けた人は、筆者の疑問にこう解答していました。

「日本人が欧米を信奉するのは、欧米人が世界で覇権を握っているから。中国が覇権を握るなら、日本人は中国に鞍替えする。この記事の指摘は本質から外れている」

・・・。

日本人は、極めて合理的な信仰心を持った世界的に珍しい民族である、と言えるのではないでしょうか。恐らく、これは誰かが決めたのではなく、自然にそうなったからだと考えられます。

超越的なものへの畏れを抱きながら、宗教心を忘れず、さまざまな宗教を信じる者どうしが(宗教を信じない者も含めて)、教義を相互にたたかわせるのではなく、相互の宗教精神そのものに対して敬意を払いながら、聖徳太子が言ったように「和をもって尊しとなす」の方針で付き合っていくことが重要だと日本人は考えているのではなかろうか。

 こうした宗教的態度は、一朝一夕で形成されたものではなく、日本の長い歴史の中で繰り返された生活の知恵の蓄積によって獲得されたものだと信じる。そうであるならば、奇妙とも思える日本人の宗教的態度が世界各民族の宗教対立の融和に、かえって役立つと考えてもよいのではなかろうか。

日本人の宗教観は奇妙か、それとも他国が奇妙なのか ダイヤモンド・オンライン

日本人の絶対的な神

状況によってころころと変化する、合理的で不埒?な、日本人の「可変型宗教観」ですが、それでも唯一、普遍的に崇めざるを得ないものがあるようです。

そう考えると、日本ではなぜ自然が、恐怖、あるいは、畏怖の念を持たれているのか理解できる。欧米にある多くの国と異なり、自然災害という面においては、日本は本当に危険なところなのである。

外国人が心底驚く日本人の特異な「自然観」 東洋経済オンライン

触らぬ神に祟りなし

そう、自然は日本人にとっての最も畏れるべき力、唯一絶対の神だったのです。ですから、自然をないがしろにしたようなイデオロギーを押し付ける権力者に、日本人が最終的に従うことはないでしょう。

そして、遠い海の向こうの国でも最近、「自然を大切にしよう」という政治運動がブームになっているらしいじゃないですか。

「整った自然」は、自然とつながりながら季節の変化を楽しむ最も安全な方法だろう。だからこそ、風景式庭園、盆栽、生け花、季節の花(桜や梅など)が重要なのだ。これは日本独自のものであり、凄まじい迫力を有する自然に対する深い敬意を表しているものと感じる。

自然に敬意を表するのは、私たちの先行です。

こうした日本人独自の自然に対する考え方や概念は、欧米人のそれとはだいぶ違うが、最近は少しずつ広がり始めている。自国文化と違うからと言って敬遠されるのではなく、日本的な考え方はむしろ尊敬されているのである。

世界は、私たちの方に寄ってきたのかもしれません。