今の国際情勢を一言で言い表すならば、「世紀の大逆転劇」。これ以上の言葉は見つかりません。(仕組まれた)は、一応カッコ付けにしておきましょう。

国際政治の舞台では「永遠の被害者」だったはずのイスラエルが、突如として世紀の犯罪者へ、日本社会では、僕たち私たちの永遠のアイドルだったはずのジャニーズと宝塚が、カルト教団の教祖様へと転落しています。

これらの「世紀の大逆転劇」には、実は明確な出発点が存在します。

全ての始まり

その答えは明快で、2016年の大統領選が全ての始まりなのです。トランプ大統領の誕生自体がそれそのもの、と言えますが、私にとって、とてつもなく奇妙にだったことと言えば、その後に世界中を駆け巡った「とある声」です。

「ざまあみやがれ!」

その嘲りをふんだんに含んだ勝利の咆哮は、メディアを通して世界を駆け巡りました。具体的には「メディアは読み間違えた!」「それはフェイクニュースだ!」「全ては偏向だ!」という内容。

それは今、どこからか世界に拡散されているメッセージそのものと言っていいでしょう。

そして、これは何度も書いたことですが、そもそも、2016年の大統領選の結果に関して、メディアは読み間違えてなどいなかったのです。メディアは非の無いことで自らを咎めた宣伝を行ったのです。

この極めて奇妙な現象を目の当たりにした時、私はこれから世界で何かよからぬ大きなことが起こると直感し、このブログの「国際政治」カテゴリーを立ち上げました。

全ての始まりを告げる記念すべき、第1作目。まだ、読んでない方はどうぞ↓

以来、「世界」を嘲笑した声の主を探すことに全力を傾けてきたのですが、とうとう、その尻尾を掴んだような気もしているんですがね? ちなみに彼らは、2020年の大統領選でも「大逆転」を仕込んでいたのに、その実現に失敗した可能性がとても高いのではないですかね。

つまり、当ブログは2020年を”読み違えた”のではなく、彼らと共に負けただけだったのです。

トランプの白い虎

さて、話は少し飛びますが、『スーホの白い馬』ってお話を知っていますか? 私の頃は教科書に載っていたんですが、いまはどうなんですかね。なんで、これを急に取り上げたかと言うと、もちろん、今回の記事に大いに関係あり、と判断したからです。

では、この物語のあらすじを覗いてみましょう。

ある日、遊牧民の少年スーホは帰り道で倒れてもがいていた白い子馬を拾い、その子馬を大切に育てる。それから数年後、殿様が自分の娘の結婚相手を探すため競馬大会を開く。スーホは立派に成長した白い馬に乗り、見事競馬大会で優勝する。しかし、殿様は貧しいスーホを娘とは結婚させず、スーホに銀貨を3枚渡し、さらには白い馬を自分に渡すよう命令する。スーホはその命令を拒否し、殿様の家来たちに暴行され白い馬を奪われる。命からがら家へ辿り着いたものの、白い馬を奪われた悲しみは消えなかった。

「スーホの白い馬」 ウィキペディア

昔々、「遊牧民」の少年が「悪いお殿様」に虐げられましたよ、というお話だったのですね。ね、大いに関係あるでしょう?

以上からして『馬頭琴』は単純な主人公と馬の絆の物語ではなく勧善懲悪を基調に無産階級のスーホが善、有産階級の殿様を悪とした特定の時代、社会、政治思想により作り出された作品である。

ま、一言で言えば、高度なプロパガンダだったという訳です。

で、少し前に「スーホの白い馬2022」というものが、SNS上で話題になっていたようなのです。

お話は、お母さんで投稿者の「swenbay(@michaelsenbay)」さんとのやり取りで進みます。

(中略)

我が子「スーホは白い虎に乗って逃げました。王様は鉄砲で虎を撃とうとしました」
私「虎……!!」
我が子「その時、王様をやっつける人がやって来ました。それは白馬に乗ったお姫様だったのです」
私「ヒエッ、強いお姫様が白馬に乗ってきた」
我が子「お姫様はスーホと白い虎を助けました」

我が子「スーホとお姫様はカップル系ユーチューバーとして人気になり、白い虎と白い馬は幸せに暮らしました。悪い王様は炎上して貧乏になりました。おしまい」

かわいそうな物語「スーホの白い馬」を、小2女子が現代版に! 「馬頭琴系YouTuber」「ジェンダー観の多様性」と話題 まいどなニュース

それは「遊牧民」が「悪い王様」にやり返す、見事な「世紀の大逆転劇」

「遊牧民」が「悪い王様」にやり返す世界史

さて、話を現実に戻しましょう。

ドイツのオラフ・ショルツ(Olaf Scholz)首相は14日、トルコのレジェプ・タイップ・エルドアン(Recep Tayyip Erdogan)大統領がイスラエルをファシズム国家だと批判したことを「ばかげている」と一蹴した。

AFP

さて、昨今の世界情勢を象徴する、こちらのニュースですが、「遊牧国家」であるトルコの首相が、西側の「悪い王様」を非難する、象徴的な内容になっていますね。

もともとトルコ系民族はアルタイ山脈付近で遊牧生活を送っていた。世界史上のトルコ系民族は、まず中国史料に現れる。前3世紀頃、匈奴に服属していた丁零(丁令、丁霊とも書く)が最初で、後に高車と言われるようになる。

「トルコ系民族」 世界史の窓

ここ最近の分析で、「仕組まれた世紀の大逆転劇」を司会進行し、「西側」を嘲笑する声の主、当ブログ通称「ロンドン派」の源泉は、遊牧騎馬民族を祖に持つものたちではないかという説に行きつきました。

冒頓単于は前3世紀~前2世紀の初めにモンゴル高原を統一した英雄です。匈奴は民族名、冒頓が名前、単于とは遊牧君主の称号と理解してください。「ハン」という称号が生まれる前は、単于と呼ばれていたのですね。

 ちなみに冒頓とは、「バガツール」や「バートル」というトルコ語やモンゴル語の「勇者」という言葉の漢訳、という説もあります。冒頓の生年は不明。遊牧世界では、文字で記録を残すことに価値を見いだしていなかったからです。

遊牧世界を統一した「冒頓単于」愛馬も妻も手にかける狂乱のカリスマ? 日刊ゲンダイ

「狂乱のカリスマ」は、トランプはもとより、各所の為政者のモデルかも知れませんね。

文字で記録を残すことに価値を見出していなかったのではなく、それを嫌っていたのではないですかね。記録を残さないのは「最強」にとっては、当たり前のことのはずです。

冒頓の軍団には1万~5000程度の騎馬兵を持つ長が24人おり、その下に「千長」「百長」「什長」という十進法原理に基づいて騎馬軍団が統合されました。冒頓は合計20万人を超える兵士を合理的な方法で統治したのです。このような組織構成は、のちの遊牧諸勢力や現在のトルコ共和国の軍制にも継承されました。

では、彼らのライバルである「悪い王様」とはいったい何を指すのかと言えばその主体は、これまで書いて来た通り、ドイツのハプスブルグ家、中国の漢民族、そして、我が日本の天皇家で間違いないでしょう。

「最強」は何を志すか

さて、これらの説が正しかったとして、「最強」の彼らは、いったいどんな未来を志そうと言うのでしょうか。

ボズ監督:ドキュメンタリーの仕事をもらって、初めて興味を持ち始めたようです。私と夫が魅力を感じた点は、彼らがまったく物欲がないということです。テントだけを持って気が向いたところでテントを張って暮らす、まさに自然と共存して生きています。夫はそこに魅力を感じたようです。私自身は遊牧民の女性が強いことに興味を持ちました。映画でも描いていますが、すべて判断は女性がします。トルコの映画業界も含め、映画の中には強い女性の役というのがもっと必要だと思っています。

TIFF公式インタビュー「世界に、トルコの遊牧民の存在を知って欲しいと思いました。」イフェト・エレン・ダヌシュマン・ボズ監督:アジアの未来部門『最後の渡り鳥たち』 東京国際映画祭

判然とはしませんが、彼らがとりあえず「私たち」に説教を始めたということは分かりました。

・自然と共存しろ

・女性の地位を高めろ

・多様性を大事にしろ

まあ、一理あると言えるでしょう・・。

「神の人」と呼ばれる人たちは定住する場所がなく、たえず広いロシアを旅しながら暮らしていました。いつもは普通の生活をしていて、イェルサレムや聖山アトス のような聖地参拝のために、一時的な旅に出る巡礼ではありません。あるいは相当長い期間をかけていくつかの霊場などを巡拝する日本のお遍路さんとも違います。 定住生活から生じる貧富、支配隷属関係、生活の習慣化、習慣的生活の惰性化や堕落などを恐れ常に旅することで生活を必要最低限の枠に収めると同時に、たえず新しい環境の中 で活性化することを求めていた人たちのようにも思えます。

『戦争と平和』 岩波文庫のコラムより

「定住」こそが人間の堕落、諸悪の根源である・・

当時のウィーンはハプスブルク君主国、つまりオーストリア帝国やハンガリー王国など、ハプスブルク家が一手に治める国家・諸地域の中心であった。

この君主国では社会経済の近代化が19世紀半ばに少しずつ進み、世紀後半に様々な大企業が生まれ、経済成長を実現させた。その経営者がまさにウィーンの富裕層だった。

また大貴族は、封建領主制の廃止以降は大地主として農林業や不動産業からの莫大な収益を得続け、その一部はウィーンに主居住地を置いていた。

(中略)

だが、こうしたウィーンの上流社会は大戦後、儚く崩れた。君主国の解体と共に各地域は別国家となり、富裕層の資産や事業基盤は分断され、残った資産も戦後のハイパーインフレや新国家による課税で霧散したからである。

(中略)

元来ウィーンの上流社会は17、8世紀の宮廷社会に源流があり、そこでは貴族らは支配層の一員として顕示的に振舞い、時にはノブレスオブリーズ(支配者としての責務)を自覚してきた。そうした場の意味合いは19世紀末にも残っていた。だが、この伝統は絶えていった。

翻って現代の富裕層には、そう振舞う歴史的必然性のあるコミュニティはないだろう。つまり21世紀の格差社会は「上流社会」を持たず、所得で「富裕層」「中流層」などと曖昧に分類されるだけの個人主義的な、歴史的に全く新しい社会であるからだ。

こうした中からは、世紀末ウィーンのような文化が生まれはしないだろう。では、代わりに何が・・・・・・。

21世紀の格差社会には「上流社会」がない…19世紀ウィーン富裕層の研究から現代が学べること webアスティオン

ああ、もう、わかりました。あなた方がいったい何をしたいのかが、はっきりと。しかし「定住弱者」のわたくしから、一言「最強の神の人」に物申させていただくとすれば、世界大戦は、流石にやりすぎじゃね?