現代の国際政治を分析していて得た知識を歴史に当てはめてみる。すると、驚きの側面が浮かび上がってくることに気づいたわけですが、今回は、その「空想歴史物語シリーズ」の第2段になります。

今回は、古代ヨーロッパに存在した最強帝国の話から入ります。

ローマ帝国を滅ぼしたもの

このヨーロッパ文明の原点は、中部イタリアの一都市から発展して先進諸国を征服して、地中海を内海として強大な統一国家を確立した古代ローマ帝国(以下、ローマ帝国)にある。

MMM

現代の西洋文明社会の礎は、古代ローマ帝国にある。

この考え方に強い異論はないでしょう。古代ローマ帝国の滅亡は、一般的には、西ローマ帝国のそれを指し、その年代はおおよそ、西暦500年頃となります。

その「西側」が滅びた原因ってご存知ですか?

五賢帝最後のマルクス・ アウレリウス帝の治世には、疫病と戦争がほぼ同時に帝国を襲ったのである。

『シルクロードとローマ帝国の興亡』 文春新書

へえ~パンデミックと戦争、つい最近、どっかで聞いた話だね。

そして、このような悪貨の発行は、悪しき先例となり、続く皇帝たちも、金に困ると、アントニニアヌス銀貨を大量に発行するようになった。

(中略)

これらの銀貨の価値の下落は、激しいインフレを引き起こした。また銀貨の価値低下に 伴って、銅貨もその価値を喪失し、三世紀後半には、金貨、銀貨、銅貨の三本立てであっ たローマ帝国の貨幣体系そのものが崩壊することになる。

なるほど、財政に困って、バラマキでインフレね。いつの時代もおんなじだ。人類は先人に学ばにゃいかんね。

したがって、その衰亡は、帝国の西半分が滅んだのでなく、シルクロードの経済圏から切り離されたユーラシア大陸の西端が壊死したととらえることも可能であろう。実際、ローマの文明は、その最西端ともいうべき ブリテン島から順に姿を消していったのであった。

シルクロード、つまり東側との経済的断絶が、西側を滅ぼしたのかあ・・・・

で、極めつけはこれ。

先陣を切って移動を開始したのは、ゴート族であった。彼らは、東方から現れた遊牧民フン族に攻撃されて、いわば難民のような形で、ローマ帝国内への移住を求めてきたのである。

難民問題

もう、誰もがこう思ったことでしょう。歴史が繰り返し過ぎちゃってる! と。

で、私は難民を生み出した、つまり「ローマ帝国」を滅ぼすきっかけとなった「フン族」にピンときまして、調べて見ると、非常に興味深いものが見えてきたのです。

ローマ帝国を滅ぼした「フン族」

370年までにフン族はヴォルガ川に到着し、430年までにヨーロッパに広大で短命の支配権を確立し、ローマ国境の外に住むゴート族や他の多くのゲルマン民族を征服し、他の多くの民族のローマ領土への逃亡を引き起こした。

「フン族」 ウィキペディア

「ゲルマン民族の大移動」がローマ帝国を滅ぼしたって話は、学校でも習いましたよね。その「ゲルマン民族の大移動」を起こしたきっかけが、フン族の侵攻にあったと言われているのです。

フン族は、特に彼らのアッティラ王の下で、東ローマ帝国に頻繁に破壊的な襲撃を行った。

そして、アッティラ王の下で、ローマ帝国に直接的な攻撃さえも行った。つまり、ローマ帝国を滅ぼしたのは、フン族だと十分に言えそうじゃないですか?

では、ローマ帝国を滅亡させたアッティラ王のことも調べて見ましょう。

ローマ帝政末期に広がっていたキリスト教の信者からは、「神の災い」や「神の鞭」、「大進撃(The Great Ride)」と言われ恐れられた。

出自についてはフン族自体と同様、詳しくは分かっていないが、名前や風貌の伝承などからテュルク・モンゴル系民族に属すると思われる。

(中略)

しかし奇妙な事に、北欧ではむしろ英雄視される傾向にあり、サガやゲルマンの『ワルタリウス』や『ディートリヒ伝説』などの複数の民間伝承、およびそれらから派生した『ニーベルンゲンの歌』などでは、アッティラが偉大かつ聡明で寛容な王として登場する。 これは「(北欧の)フィンランドはフン族が作った国」という説が広く信じられてきた影響も大きいと言われる。

「アッティラ」 ウィキペディア

私が特に興味を魅かれたのは、この辺り。奇妙な事に北欧では英雄視されている・・ほんとのほんとに奇妙だなあ~なんでかなあ~。しかも、このアッティラさん、ローマ帝国の皇帝に暗殺されたっぽいことが書いてありますねえ。

なんだか、私の書いている、現代のあれとあれの戦いにそっくりなんだよなあ。

さて、アッティラさんはこの辺にして、フン族に戻りましょう。

18世紀、フランスの学者であるジョセフ・ド・ギーニュは、フン族と、紀元前3世紀に中国の北の隣国だった匈奴族とのつながりを最初に指摘した。

「フン族」 ウィキペディア

フン族の祖先は、中国の北に住んでいた「匈奴」じゃないかって説があり、古すぎて断定は出来ないけど多分そう、みたいな感じらしいです。

アジアの最強帝国

では「匈奴」と、その後にもう少し突っ込みます。

紀元前2世紀、それまでのライバルであった月氏が西の中央アジアに移住すると、匈奴はモンゴル高原を中心とした東アジアのステップ地帯で圧倒的な勢力を持つようになった。

「匈奴」 ウィキペディア

「匈奴」は、モンゴル高原辺りから出てきた遊牧民族なんですが、ここに新しいキーワードが登場です。当ブログの記事に「モンゴル」って単語は、一度も使ったことがありません。もしかすると、これまで全く聞こえてこなかったこの言葉が、国際政治の大きな鍵を握っているかもしれません。

(CNN) ある遊牧民の帝国が、紀元前200年から3世紀にわたりアジアの平原を支配していた。彼らはシルクロードで交易を行い、精巧な墓地を死者のために築き、馬を駆って遠方の土地を征服した。

匈奴(きょうど)の名で知られるこの帝国と強力なライバル関係にあった古代中国の王朝は、防衛のため万里の長城を建設。その一部は現在も残っている。

(中略)

だがここへ来て、古代のDNAの証拠と近年行われた考古学上の発掘の成果を組み合わせることにより、あの時代最も強大だった政治勢力の一つにまつわる秘密が明らかになろうとしている。

古代の遊牧民が築いた帝国の秘密、DNAで解明 CNN

それは、もしかすると、現代にまで続く「最強」のルーツかも知れません。

匈奴は一時巨大な帝国を築いて、中国(漢)に度々侵入していました。幾度かの戦いの後、漢が勝利して、匈奴を西側へ追い払ったとされています。

時の中国(漢)に敗れた匈奴の一部が、ゲルマン民族の一派である「ノルマン人」となり、そしてバイキングとして、中世のヨーロッパを襲った可能性は、十分に考えられそうです。

おそらく、この時の彼らは、欧州の力を借りなければ、つまり、先に西側を征服しなければ、東側、中国には勝てないと考え、一度撤退する戦略に切り替えたのではないでしょうか。その勇気ある撤退は、数百年後の勝利をもたらすことになるのです。

そして、西暦1200年のアジアにも、彼らの末裔かも知れない、もう一つの「最強帝国」が存在していました。

実際のところ匈奴が残した影響は強大で、ユーラシア大陸の平原を起源とする後世の遊牧民族の王国も彼らに感化されていると、ミラー氏は語る。チンギスハンを初代皇帝とするモンゴル帝国もその一つだという。

「モンゴル帝国」。それは日本の歴史教育においては、埋ずもれた存在です。

最盛期の領土面積は約2400万平方キロメートルで、地球上の陸地の約17%を統治し、当時の人口は1億人を超えていた。その領土の範囲は人類史上において大英帝国に次ぐ2番目の巨大さだった。

なぜ、世界史上第二位の帝国は、決して注目されないのでしょうか? それは不可解とすらあります。彼らは、知るに値しないのでしょうか?

しかし、モンゴル帝国にとって日本侵略という作戦は、領土拡大戦争の戦略上、重要な意味を持っていたのです。

(中略)

答えを先に言ってしまうと、モンゴル帝国は日本を侵略して服属させ、海軍を組織しようと考えていたようです。その背景には、当時モンゴル帝国が中国全土の統一に向けて南宋に侵攻していたという事情があります。

モンゴル帝国が日本侵攻にこだわった理由と、彼らに出口治明氏が注目するワケ ダイヤモンド・オンライン

この記事を読む限り、全くそんなことはなさそうですね。なんと! 日本を東アジア征服の拠点にするという軍事作戦は、イギリス・アメリカではなく、モンゴルが起源だったのです。さて、これで蒙古襲来の謎もすんなり解けました。

そして、彼らは情報分析技術も”イギリス並み”だったようです。

モンゴル軍の遠征における組織だった軍事行動を支えるためには、敵情の綿密な分析に基づく綿密な作戦計画の策定が必要であり、モンゴルは遠征に先立ってあらかじめ情報を収集した。実戦においても先鋒隊がさらに前方に斥候や哨戒部隊を進めて敵襲に備えるなど、きわめて情報収集に力がいれられる。また、中央アジア遠征ではあらかじめモンゴルに帰服していた中央アジア出身のムスリム商人、ヨーロッパ遠征では母国を追われて東方に亡命したイングランド貴族が斥候に加わり、情報提供や案内役を務めていたことがわかっている。

「モンゴル帝国」 ウィキペディア

イギリス貴族が案内役とか、悪い冗談でしょう。

現代では抵抗した住民を皆殺しにするというモンゴル軍のイメージは、戦わずして敵を降伏させるためにモンゴル側で積極的に宣伝された情報戦術のひとつだったのではないか、とする分析もあり、言い伝えや歴史記録には大きな誇張が含まれるとされている。

これにはもはや、苦笑いするしかありません。「茶番」の元祖は、モンゴルだった!

「最強」と戦い続ける日本の一番偉い人

それにしても、昔の日本の偉い人たちは、こんなヤバイ奴らと戦って勝ってきたんて、本当にすごいことですね。

ただ、この時に日本がモンゴル帝国に敗れて侵略されてしまっていたら…という「歴史のif(もしも)」を考えるとゾッとします。必死の思いで日本を守ってくれた当時の人々への感謝を忘れてはいけませんね。

モンゴル帝国が日本侵攻にこだわった理由と、彼らに出口治明氏が注目するワケ ダイヤモンド・オンライン

本当にその通りです。それはまさに、日本の歴史のターニングポイントでした。この時の日本の最高指揮者は、天皇だったはずです。歴史を鑑みれば、天皇家の歴史とは、常に「最強」との戦いでした。

彼らの宿命は、「蒙古襲来」から日本の国体を守ること。それは今も昔も決して変わることはありません。その運命は、余りに過酷であると言わざるを得ません。

捜査関係者によると、長谷川容疑者は容疑を認め、「今の天皇制では日本は良くならない」などと天皇制を批判する供述を続けている。

悠仁さまの机に刃物「刺すつもりだった」 容疑の男供述 朝日新聞

この事件が表す諜報的メッセージは、「我々は、いつでもお前を殺せる」です。

過去の日本が「最強」に勝てた理由は、以前も書いた通り、地理的な要因が主たるものでしょう。そしてもう一つ、モンゴル帝国の前身が匈奴帝国なら、中国が日本を守ってきたと言えます。中国が匈奴に負けていたら、日本も終わっていたでしょう。

元寇の言い伝えの通り、日本が日本として生き残れた本質的な理由は、単に「運」がよかっただけだと思います。日本は大きな過ちを犯しながらも、現代まで生き延びたのです。

その大きな過ちとは、もちろん先の大戦です。日本を守ってきた中国に対して、恩を仇で返す格好になりました。日清戦争で敗れた中国は、それをきっかけに辛亥革命が起こり、皇帝が滅んだのです。

「最強」の計画では、その後にアメリカが日本を倒して、中国と同じ形で「日本の皇帝」を滅ぼす気だったのでしょう。しかし、事は計画通りには運ばなかった。私は「日本の皇帝」を守ったのは、結局のところ国民だと思います。

なぜなら、世界各国の皇帝を続々と滅ぼした革命は、決して日本では起こることがなかったからです。天皇を悪く言う日本人なんて、私が知る限りどこにも居ない。そして、それは「タブー」とか「洗脳」ではない。

天皇家は、自然的な感情でもって、日本人に深く敬愛されています。

天皇とはいったい何か?

日本の国民は誰一人ともそれを知りませんが、しっかりと感じているのではないかと思います。私は「天皇は、日本の一番偉い人」と幼少の頃にそう教わり、そう思ってきました。多分、みなさんも同じじゃないのかなあと想像しますし、それは正しかったんじゃないでしょうか?

そして、天皇家と国民との良好な関係が続く限り、日本と「最強」の戦いは、再び日本の勝ちに終わることになるでしょう。

※念のため、最後に誤解なきように書きますと、引用した記事にあります通り、日本を襲った「族」は、モンゴル高原に一時的に住んでいた他民族の集団であって、決して「モンゴル人」ではなく、つまり、モンゴル人が日本を襲ったという話ではございませんので、どうぞ悪しからず。